「嘘つきは ドロボウのはじまり」。その言葉を、おぼえるころには、私にはもうすでに「嘘つき」という、不名誉な認定がされていました。
なんだか子どもの頃の私は、周りの人から、そう言って糾弾されることが、たびたびあったからです。
私は、まぎれもなく、嘘つきだったのでしょう。かまってほしくて、ありもしない空想のおとぎ話を、まわりの人に語っていたのかもしれません。
ぼんやりして失敗をしてしまったり、物忘れをしてしまったりしたときは両親に怒られたり、姉たちに笑われたりすることを避けようと、必死で隠そうとして、みえすいた嘘をついていたのかもしれません。
とにかく、よく覚えているのは、「なぜ 嘘をついたの?」という質問は決してされず、「嘘をつく子は、家にはいままでひとりもいなかったのに」という両親のなげきと、「ドロボウになるぞ」という絶望的な宣告、そして姉たちからの、「自分たちとは全く違う生き物」を見るような、あわれんだようなあきらめたような距離感でした。「嘘をつく子ども」は、それほど親を、そして姉妹親戚を、失望させ、心配させることなのでした。
もしかしたら、今、この瞬間も、地上のどこかで、子どもは嘘をついているかもしれません。そして、「嘘つきはドロボウのはじまり」と親を失望させ、激昂させ、折檻を受けているかもしれません。
けれど、できれば、ひとことでもいい。「なぜ嘘をついたの?」と聞いてあげてほしいのです。もしかしたら、子どもなりに、なにか理由があるかもしれません。
たわいのない思い出だけれど、私は、よく上の姉に呼ばれてこう聞かれていました。「私たち二人のうち、どっちが好き?」私は目の前の姉が好きだと答えました。
また、別の日に、私は下の姉に呼び出され、こう聞かれました。「私たち二人のうち、どっちが好き?」私は目の前の姉が好きだと答えました。
私はある日、二人の姉に囲まれていました。
二人は、私の前に並んでこう私に問いかけました。「私たち二人のうち、どっちが好き?」そして、何も答えられなくなった私に、二人の姉は、声をそろえて「嘘つき」と言いました。
「好きか嫌いか」「よい子かダメな子か」そんな二元論しか教えられてこなかった女の子たちの、悲喜劇的な姿、今の私なら、そう考えることができます。でも、当時の私は、4歳児でした。何とかして、二人の姉の無理な問いかけに、応えようと必死になっていました。
「ふたりとも好き」そう答えても、嘘つきの言うことですから信じてもらえません。二人とも目の前にいるのです。そして、お調子者の私の矛盾を、二人が立証しているのです。絶望的な状況でした。「ダブルバインド」という言葉と、それが人の心に与える影響を、後年になって知った私は、自分がいかに危険ないたずらをされていたかということに気づきます。
でも姉たちは、たわいもない遊びを繰り返していたにすぎません。
ただ、私は、日々逃げ出せない家族という関係性の中で、とにかく、自分はとても恥ずかしい人間なのだと思いました。自分は嘘つきで、ドロボウのはじまりで、我が家に一人しかいないほどの、性根の曲がった人間なのだから、一生許してもらえないのだ、と、真剣に思いつめていました。