「いま、ここ」にある幸せ

「ある日、学校の廊下をひとりで歩いていた時、ふと気づきました。今、窓から入る涼しい風が気持ちいい なんて思いながら この夏の制服を着て廊下を歩くことは、もうないのです。高校生という日々が、私の人生の中で2度と来ない、貴重な時間なんだと気づきました。今、この時を大切にしよう、そう思うのです。」高校3年生の彼女は、進路への試験を控えて、重く神経質になりがちな季節なのに、こんな生き生きとした文章を書いてくれました。素敵です。

高校生の彼女から、大人の私の方が教えられた気がします。「いま、ここ」にある幸せを味わいながら生きる ということについて。

お休みの日、公園のベンチに腰を下ろし、こっそりと靴下を脱いで、裸足の足の裏を、地球に預けます。「こうすると、体の中にたまった電気が放電されて、健康に良いらしいよ」去年の秋、東京の浜離宮公園で芝生に素足を投げ出しながら、アーシングについて息子が教えてくれた日のことを思いだします。あの日も秋の風が気持ち良くて、広い芝生の上には 同じようにシートを広げた家族や、海外からのバックパッカー達が、思い思いに足を投げ出していたものでした。

今日はただ、目をとじて、地面に預けた足裏から、地球の真ん中へ向かって、どんどんどんどん悪いエネルギーが流れていくことを想像してみます。

風が心地よくふきぬけて、さらさらと音をたてています。この季節まで、夏を生き延びた私を祝福してくれているようです。よく生きたね、秋の風を感じなさい、風がそう言って、やさしく褒めてくれているようです。ああ、しあわせだ と思います。

ともすると私たちは毎日『今日の予定、今週のミッション、来週への課題』に頭を占拠されながら、うつむきがちに生きてしまっています。視線はいつも数メートル先の廊下をみつめ、心は常にこのあとの仕事をイメージしながら、時に緊張し、時に憂鬱に、時に危機意識をもちながら生活しています。頭の中は不安と予定で一杯なのです。

だから、「いま、ここ」に生きていることの素晴らしさ、心地よい空気、与えられた幸せを、味わうことを忘れてしまうことが、しばしばあります。

でも、ふと気づくのです。「いま、ここ」にいる自分は、いつか夢見ていた「将来の夢」に近く、むしろそれ以上に幸せかもしれない ということに。

手にしている「いま」は、過去の自分からのご褒美なのです。私なりに一生懸命生きてきて、完璧ではないけれど、そう悪くない「いま」を手にしているのです。それを遠慮なく受け止め、味わってもいいのではないかな と思うのです。

「今日の私」は、残りの人生の中で、一番「若い私」です。もう55歳だとかおばさんだとか、誰の評価も要りません。「今日の私は人生最新の、充分キラキラした私」だと思うのです。

「一秒で『しあわせ』を手にする方法があります。それは『すでに しあわせ だ』と気づくこと、あるいはその真実を思いだすことです。」木曜日の朝、起きた瞬間から、この言葉がどこからか降りてきて、それ以来 ここ数日間、なぜか、その思いが頭から離れません。

いつか聞いた「吾、唯、足るを知る」ということばも、浮かんできます。

思い描いていた未来が、コロナによる予定変更で、急に失われることの多い日々が続きましたが、「あったはずの未来に、それ以上執着しない」ことが心を元気にすることもあります。実は「あきらめる」という力が、「強い心」の大切な要素なのかもしれません。

手に入らなかったものに執着するのではなく、いま手の中にあるものを愛おしんで生きることを選びたいと思います。それが私の、最近見つけた「一秒で幸せになる」秘訣なのです。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です