1984年の春のことでした。
私は大学生になりました。地元の大学でした。いよいよ受験校を決めるというときになり、突然親からすすめられたその大学は、それまで希望していた他県の大学とはちがい、山のなかにあって、周囲にほとんどなにもなく、華やかさのない大学でしたが、私は言われるまま進路希望を変更していました。親に逆らうという発想自体がなかったからです。
一度きりの受験が私に許されたのは 授業料も安く、実家から仕送りを受けずに卒業する友人もいたほどの、苦学生にも優しい大学でした。
その大学は交通の便も良くないし、実家は遠いため通うことはできません、私は実家を離れ、大学近くの女子学生向けのアパートを借りて住むことになりました。家賃は一万円でした。
木造二階建ての、四畳半のアパートでした。共同トイレに共同風呂がついていて、洗濯機も公衆電話も、みんなで一緒に使うものが一台あるきりの生活でしたが、私にはそこが、初めて得た楽園のように感じられました。
電話がないので、実家からの指示は届きませんでした。そこで始まる新しい生活には、今まで私をがんじがらめにしていた両親の支配から自由になることをも意味していたのです。
一人暮らしをさびしいと感じることはありませんでした。朝起きて、一日の過ごし方を考えながら 今日はどんな一日になるのだろうと、わくわくしました。人気の講義に登録するために、前の日の夕方から行列に並んで、毛布にくるまりながら友人を増やした夜中のキャンパス、女子バレー部に入り「ミーティング」と称して、同学年の女の子ばかり7人もが、私の四畳半の部屋に集まって、炬燵に足をつっこんで夜通し「部屋飲み」をして笑い転げたこと、いま考えれば、ふわふわとした、ばかばかしさにいろどられた時代ではありましたが、その一瞬一瞬はきらきらと輝いていました。
あの頃、私の脳は、ものすごい勢いで活性化し、思考し、記憶し、ときめいていたように思います。実家を離れ、親の支配から解放されて生活することで、それまでと違い、24時間が自分のものになったのです。私はその「自由さ」に感動すらしていました。
逆に言えば、それまでの18年間、いかに自分が一挙手一投足を親に支配されていたかということに、行動だけでなく、考えることさえも ほとんど親に乗っ取られていたかということに気づきます。それほど、その春の一人暮らしの始まりは、私をいきいきと生まれ変わらせたのでした。
私は、新しい仲間との出会いも楽しみましたが、誰にも気を使わず、ひとりでいる時間が好きでした。お金がなくても、あまりアルバイトをせず貧乏暮らしに耐えながら自分の時間を持つことを選びました。「せっかくもらった時間」を「アルバイトに費やすのがもったいない」と感じていました。それほど、私はその自分の日々を慈しんでいたのです。
当時は、スマホも携帯電話もなく、固定電話すら誰も持っていません。友だちと話したいと思ったら、その人の部屋に訪ねて行ってとんとんとノックをするしか方法がありませんでした。学生街は 夜と言わず昼と言わず、互いの部屋に行くための学生がうろうろしていました。ノックをして、相手がいなければ諦めて帰るだけの話でした。いまとちがい簡単に連絡がとれるツールのない時代だったからこそ、私たちは、「会えなくても仕方がない」と思う余裕と、「会えたらラッキー」と思う心をもっていたのでしょう。
桑田佳祐さんの歌が、次から次に流行していました。『Yaya~あの時代を忘れない~』が、よくかかっていました。
村上春樹さんの「ノルウェイの森」が、三年生のときに突然ブームになり、あの赤と緑の本を誰もがもっていました。まわりでは「ワタナベ君」についての噂が、まるで実在の人のように語られていました。
時代はバブルに沸いていたようですが、わたしたちはその山の中の大学で、笑えるくらいお互いに貧乏でした。日本で一番寮費が安いという噂のあった自治寮に住んでいたクラスメイトが、寒い夜なのに「暖房禁止だからね」と ドテラの下に 壜にお湯を入れた手作り湯たんぽを抱いていたのを、懐かしく思い出します。そんな苦学生の彼らに対し、私たちは敬意をいだいていました。親から仕送りをもらわない学生に対するあのあこがれは、あのころは説明のつかない気持ちでしたが、今ならわかります。親からの自立という その大人びた生き方に 私たちはまぶしさを感じたのでしょう。
ある人はグラウンドで黙々と走り込み、ある人は研究室に泊まり込んでひたすら学究し、ある人はただただナンパを決め込み、ある人は山登りに明け暮れる。ある人はお金をかけておしゃれをし、ある人はアルバイトに精を出す。それぞれが自分の価値観に従っていました。周りに合わせることを誰も強要されず、同調圧力も薄く、常識にとらわれず「変わった人」がそのまま許される場所、それが私から見た「大学」でした。そんな大学の空気が私は好きでした。
いま、こうしてあのころを振り返ると、与えられた空間と、時間の価値に驚きます。不便で、不自由で、貧しかった私たちは、だからこそ「ひとりの時間」を味わいつくし、わざわざ部屋を訪ね合って、何時間も同じ時を過ごし、語り合い、笑いあったのでした。失敗や挫折も、情けなく恥ずかしい思い出も、いま思えばすべて、すばらしい私への贈り物だったのだと気づきます。