長い休みの終わり

連休の終わりを迎える日、テレビのニュースでマイクを向けられた人は、大人も子どもも、「いやだ、学校もう行きたくない」「休み明けの仕事がつらい」と言います。ずーっと休みだったらいいのに と。みんなそうなのでしょうか?

高校生のころ、私は「長い休み」の終わりを心待ちにしていました。「早く、早く学校が始まればいい。学校に行きたい」と心から願っていました。もう「家にうんざり」していたからです。

高校生になって「受験勉強の妨げになるから」という理由で「運動部」と「生徒会」を母から止められていた私は、長い休暇を、誰とも遊ばず誰とも会わず、ただただ家に籠って机に向かうだけの毎日を過ごしていました。そんな姿を見せることで 親から小言を言われないように工面していたのでした。

内心は、運動部にも生徒会にも興味はありました。でも親から「後で後悔するよ」と言われれば、それほどまでに自分も望んでいないような気もしました。(「後悔するよ」は『詐欺師の常套句』だということに、当時の私はまだ気づいていませんでした。)だから私の高校時代は、教室と、少しの美術室と、自宅とに明け暮れました。学期末とともに、自宅での長い生活が始まりました。

その単調で地味な毎日は、私にとって地獄の様に長い日々でした。勉強も、受験だけのための苦行となれば楽しいとは思えませんでした。

それに、10代半ばの私は、創作意欲や承認欲求や妄想やあこがれがないまぜになって「表現したい」というエネルギーで一杯でした。自己表現であれば何でも良かった、スポーツ、ダンス、クラス演劇、絵画、・・・自分の内側にある何かを、表現したいという激しい衝動に駆られていました。

だから心底思っていました。「こんな休みなんか、早く終わってしまえ。学校に行けば、行事がある、変化がある、こんな退屈な家にいたくもない。」そう心で叫んでいました。もちろん、親の言うことを良く聞く素直な高校生のふりで。

「いまを生きる」という古い映画が好きです。管理教育に押しつぶされそうな高校生の群像。「後で後悔するぞ」という『詐欺師の常套句』を押し付けてくる支配的な親と、演劇という自己表現を熱望する若者の姿が、あの日の自分に重なります。

「いまを生きろ」自己表現をしたいと思うなら、その思いを大切に、君の人生は君のものだ、いまを生きろ、若者よ。

キーティング先生の声が、耳に残ります。ロビン・ウィリアムズが亡くなり、遺作となってしまったからこそ、その言葉は深く心に刺さります。

長い休み、学校への再登校に苦しむ子ども達のことを、多くの人が心配しています。その一方で、家がいごこちが良いとはかぎらない子ども達もまた いるかもしれません。

どうか どの子にも「いまを生きる」ことが 許されますように。

どうか すべての子どもたちが 明日も元気でいますように。

 

 

 

 

 

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