選べるしあわせ パンツでもスカートでも

「あなたが選んでね」若い人に この言葉をかけるのが好きです。

いままで何もかも大人に決められ「選ぶ機会」を与えられずに育ってきた子は、そのとき初めて「選び取る権利」を与えられ、ちょっととまどい、ぱっと顔を輝かせます。その一瞬を見るのが好きなのです。

ずっと以前、子どもの頃から児童養護施設で育ったという若い女の子と一緒に過ごし、語り合って気づいたことがあります。「好きなメニューを頼んでいいよ」とか、「あなたが選んで、決めていいんだよ」と言った時の、彼女の、とまどいながらも見せた嬉しそうな表情に、私は初めて「選べるということの価値」について考えたのです。子どもの頃から施設で育った彼女には「決められた献立、お仕着せの服、配給された文房具、指示されたルームメイト」など、「自分のために、誰かが選んでくれたもの」を黙って受け取ることばかりだったせいか、「あなたが選んでいいんだよ」と言われることが、本当に尊い経験だったようでした。

私自身も、どちらかというと、「親や姉から与えられたものを黙って受け取る」ことの多い子ども時代を過ごしてきたので、「選べる喜び」のありがたさを、少しはわかっているつもりです。「自分で選ぶ、自分で決める」という行為を、ひとつづつするごとに、身体の底から湧き上がってくるような力を感じます。あたりまえの自尊心を、私はこうして少しずつ取り戻してきたのです。

「選べる」という、ただそれだけのことが、いかに子ども達に自尊心を与え、彼らを生き生きとさせるかということについて、最近とみに考えます。

今年の春、ある高校で、それまでスカートだけしか許可されていなかった女子の制服が、「スカートかパンツスタイルかを自分で選ぶことができる」ものへと進化を遂げました。その高校の女子生徒さんは、本当に喜びに顔を輝かせながら、「先生ありがとう」と言い、自分自身で「選んだ方」の制服で登校し始めたそうです。その話をきいて、改めて「『選べる』って素晴らしい」と思い「『選べる』権利と機会をきちんと渡してあげることこそが、若者の自尊心を育てる第一歩なんだ」とも思ったのです。

性自認が持って生まれた性と違う「トランスジェンダー」の生徒さんにとっては「性別によるスカート強制」は、毎日の学校生活そのものが「ハラスメント」でしかありませんし、そんな事情がなかったとしても、「女の子だからスカートをはかなければならない」という校則は、もはや時代に合っていないと思います。

毎日の掃除の時間に、生徒たちは床にしゃがみ込んで掃除をします。自転車通学やバイク通学をする女子生徒もいます。冬の寒い日に足腰を冷やし、生理痛に苦しむ女子生徒もいます。そんな彼女たちに「絶対にスカートしか穿いてはなりません」と強制するのは、母胎保護にも反する、ハラスメントに近い人権侵害と言えるでしょう。

最近の女性用のビジネススーツには、スカートとパンツとが両方ついていて、どちらかを本人が「選べる」ようになっているようです。娘の就職活動のために一緒にスーツを買いに行ったときに、それを知りました。就職活動の時期、娘は一貫してパンツスタイルを選び、今は毎日パンツスーツで会社に通っています。彼女自身、スカートよりもパンツの方が似合うと思っているようですし、自分で選んだスタイルで通勤することで、きっと彼女は仕事に集中することができるでしょう。

私も仕事に行く朝の時間、「今日はスカート」「今週はパンツスタイルで」と、日によって着る服を変えます。その日の仕事にエネルギッシュに向き合えるかどうかも、着る服に大きく影響を受けます。毎朝、自分が選んだ服に身を包んで家を出ることは、少なくとも自分のこころの声に耳を傾ける時間があり、自分がその声を尊重する味方となることができた ということになります。「選ぶ」ということは、自分を大切にしながら生きていくうえでの 必要な儀式なのだと思います。

中学生と高校生の彼らにも、男子女子関係なく、パンツでもスカートでも自分の好きな方を、その日の気分や予定に合せて「選べる」学校が、いま急速な勢いで増えているとききます。「選べることは当然の人権」という世の中が、もうすぐそこまで来ているような気がします。だからこそ、未だに「女子はスカート、男子はズボン」とうわごとのように言い続けている 化石のような学校は、生徒に「選ばれ」ることもなくなって、やがて姿を消していくのではないでしょうか。

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です