通りすがりに 私を見て「ヒマそうだから」と話しかけてくれる子どもがいます。うれしいことです。「ヒマそう」は、私にとって、子ども達からの、*褒め言葉なのです。のんびりと生きている大人の姿を見せてあげられるのが、子どもへの「贈り物」だと思うからです。
「子どもの日」です。こんな日は「先に生まれた私たちは、子ども達へ何を贈ることができるのか」について思ったりします。『子どもの権利条約』を、改めて読み返してみるのも、「子どもの日」の私のならわしです。
「生きる権利、育つ権利、参加する権利、休む権利、差別や虐待や搾取から護られる権利」・・・『子どもの権利条約』は、どんな時代であろうとも、未来を担う子ども達を護りたい という理想に、世界中の大人達が賛成し、批准された「美しい 約束」でした。
けれど、その「美しい 約束」は、一部の大人たちのおこす「もめごと」によって破られていきます。
家族を奪われ、故郷を追われ、避難しているところを空から爆撃され、命を落としてしまった子ども達、この春の痛ましいニュースに「護られなかった子どもたち」を思い、その短かすぎた命を悼まずにはいられません。ロシアとウクライナだけではなく、いま世界のいたるところで、約束は破られているようです。
戦下でなく、平和に見える普通の家庭のなかでも、親やきょうだいや周りの人からの日常的な虐待や差別によって、こころに傷を負いながら生きている子ども達は、常に存在します。
破られたからといって この約束を 美しい理念を 捨ててしまう気にはなれません。
諦めきれない私の 子どもたちへのささやかな贈り物は、「安心できるひととき」なのだと思います。
歳を重ねた大人が、のんびりと生きている姿、その隣で、何をすることもなく子どもが過ごしていても、なんのとがめも、指示も、質問もされずに、ただそこにいることを許される時間。子どものペースで 子どもの話を 無心に聴いてくれる 大人の存在。
子ども時代の、ほんのひとときでも「この世は、ただ生きていても許される場所」と思うことのできる時間さえあれば、子どものそんな時間を静かに容認してくれる大人の姿さえあれば、その子にとってのこの世は、少しだけ安心できる場所になるのではないでしょうか。
だから 子ども達の周りには、勤勉に忙しく働く大人の他に、何もしていなさそうな、それでいて安心して生きている大人の存在も必要なのだと思います。もちろん 年齢と関係なく 忙しく働くことを好む人が働きつづけることは素晴らしいことです。気をつけたいのは ゆるやかに生きたい人への同調圧力となるような号令です。
「一億総活躍」だとか「働かざる者食うべからず」だとか、労働を強いる号令はいつの世にもありますが、そんな寒々しいことを言わないで欲しいのです。世の中に「ヒマな老人」だとか世捨て人のような「謎のおじさん」だとかが、それでも安心して暮らしていける社会を守ってほしいと思います。
「社会に貢献しているかどうか。」は、拙速に判断できるものではなく、一見何もしていないように見える「謎の大人」が、実は遠大なエネルギーを、子ども達に手渡すこともあると思うのです。
物語の主人公たちは、時に社会のアウトローによって、常識を超えた知恵を授けられます。そして一見弱者に見える仲間をかばいながら苦難を乗り越え、いざというときに 思いがけずその仲間に救われたりもします。
だからこそ、上からの号令や同調圧力による横並びの生き方ではなく 多様な生き方が容認される社会を望みます。そして実は「容認」という赦しの感性が、多くの人に「安心感」をもたらすのだと思います。
ベトナム戦争の後、長引く戦時下で育った子ども達には「平和」という概念が理解できなかったといいます。
残酷な映像とパンデミックの中で育つ子ども達にとって「安心感」という感覚は、もしかしたら、一番貴重であり、特別な贅沢なのかもしれません。
その貴重な宝を、子ども達に手渡すことができるのでしょうか。この不安の強い時代にあって、「子どもの権利条約」という「美しい 約束」から、問いかけられているような気がします。
*『暇そうな大人』とは 2017年秋に 琉球大学教授 上間陽子さんの講演をお聴きしたさいに 彼女から提案された『ありたい大人の姿』です。以来私の目標となっています。