さらに私はチエコさんの声を聞きながら、目を閉じたまま、イメージを続けました。
「その部屋の奥に、ドアがあります。ドアの向こうに、お父さんがいます。さあ、お父さんにも聞いてみてください。どうして?って。」
父もまた、5歳で父を亡くし、愛着の問題を抱えた人でした。
彼は母親や歳の離れた兄や周りの大人から「お前は次男だから、大人になったらこの家を出ていくのだ」と言い聞かされたことを、大人になっても時々思い出して語っていました。生家の「山の家」を愛していたのに、どうして自分は出ていかなければならないのだろう、と子ども心にさびしさを感じていたようです。
また、1933年生まれの彼は、12歳の年に終戦を迎えた「もと軍国少年」でした。彼は、国民学校で「戦前の価値観」を、自分たちに骨の髄まで叩き込んだ大人たちが、謝罪も弁明もなく、何事もなかったかのように日々を暮らす姿に、強い「人間不信」という傷を負ったようでした。
そんな彼のこころに誠実に向き合う大人はいず、ただ理由もわからないまま「次男は出ていくのだ」と、運命をおしつけられた少年、それが父でした。
そんな父の寂しさ、自分の人生を誰かに一方的に決めつけられる悔しさを、どうか理解して、本人のこころに耳を傾けて欲しい、そして謝罪をしてほしいと、私は父方の祖母にお願いしました。
いつの時代も、親というのは、未熟で不完全なものかもしれません。「昔の親は偉かった」なんていう言説は幻想だと思います。なにしろ明治生まれの祖母は、その時代の当たり前とはいえ、15歳で母になった人です。子どもが子どもを産んだようなものです。未熟なのは仕方がないことでした。
また、父は子ども心に刻まれた「次男」という立場へのわびしさと、「長男」という立場へのあこがれから、いつか自分も「家」や「土地」や「墓」をもち、それを自分の長男に受け継がせることを「自分の夢」のように思っていたのかもしれません。次男次女の夫婦だった二人は、家や山や土地や墓を購入し、「跡取り」を望みました。結婚して苗字を変えた私たち三人の娘にとって、それはしかし「罪悪感」の種にしかなりませんでした。「親から財産を受け継ぐことこそ幸せである」という「終わった時代の価値観」によって、私たち三人の娘は、「苗字を変えてしまった罪悪感」という荷物を負い、女の子に生まれたことを責められているような気持を負ったのでした。
一生懸命子育てをしたつもりでも、子どもの心に傷を残すことは誰もが避けられないのかもしれません。その傷が代々引き継がれてしまうという負の連鎖を断つ、唯一の方法は、親が、自分のこだわりによって子どもを傷つけたという自らの不完全さに気づき、率直に頭を下げること、そして子どもの傷を癒すこと、それが本当の意味での、親の愛なのではないでしょうか。
チエコさんの促したイメージの世界では、私は魔法使いでした。魔法使いの私は、父と母の傷ついた心を癒すため、祖父母に語りかけたのでした。父も母も、その魔法で幼いころの傷つきを癒されて、安心して、泣いているように見えました。
こうして私のイメージの中で、両親の記憶は書き換えられました。現実の彼らは全く変わらないかもしれませんが。私のこころのシナリオの中で、両親は、考え深く、穏やかな、優しい目をした人たちへと、静かに上書きされたのでした。