生まれた町を離れて

小学校2年生になる春のことです。私は、父の転勤により生まれて7歳まで暮らした、その切り株山の町を離れることになりました。

引っ越しのトラックと共に、生まれた町を離れながら、それが何を意味するのか、私にはわかっていませんでした。この町に二度と帰ってこれなくなると言うことに気づくには、経験が浅すぎたのです。

「また、帰ってくるよね」と何度も聞く私に両親は返事をせず、話題を変えました。両親にとっては、自分たちの実家にも近い、明るい海辺の町への転勤でした。めでたくそこに家を建てて、永住するつもりの引っ越しだったのです。帰ってくるつもりは、全くなかったのでした。

海辺の町に引っ越したとき、子ども心に感じたのは、空がやけに高くて、青いこと、トンビが空高く旋回しながら、いつでも私たちを見ていること、お魚がおいしいものだと初めて思ったこと、教室の友だちが、妙に声が大きくて、体が近くて、ばんばん話しかけてくること、でした。

私は九州の内陸部のアクセントで話す子どもだったため、なにかしゃべる度に、周りの子ども達が、わあっと笑うのでした。そして、興味しんしんで、私に話しかけ、何かしゃべらせ、笑ってやろうとしてくるのでした。

そんな扱いを、「いじめ」だとか「いじり」だとか「からかい」だとか思って嫌がる子どももきっといるのでしょう。ただ、私は「かまってほしい」子どもだったし、笑われることに慣れていたので、話しかけてもらえる方が、仲間の輪に入りやすいと感じるたちでした。そうして私は新しい土地になじんでいきました。たぶん、どちらかというと私はものおじしない子どもだったのでした。

時代は、高度成長期に向かっていました。世の中が、どんどん変わっていき、暮らしが、急に便利に豊かになっていくのを感じました。新しい町では、あたりまえのように、ガスで沸かすお風呂があり、薪や練炭の積まれた家など一軒もありません。あの、雪の降る寒い町で、電話を借りるために三軒となりの家にあがっていった暮らしが、ほんのひと月前まであったことなど、まるで一切忘れたかのように、私たち一家の新しい暮らしは流れていきました。

ただ、その年の一学期が終わり、夏を迎えるころ、私は高熱を出して何日も何日も寝込んでしまいました。お医者さんの見立ては、たぶん「疲労による夏風邪」だったと思います。体がだるくて、口の中がひどい味になっていたのを覚えています。

2階の三畳の部屋に布団が敷かれ、高熱の私はひとりきりで寝かされました。うつろな状態で眠り、時々目を覚ましても、あたりには誰もいない、耳をすますと階下から、楽しそうな自分以外の家族の、団欒の声がきこえてきました。「4人家族」の平和な日常が、あたりまえのようにそこにはあって、「私は この家にいない方がいいのかな」と、ぼんやりした頭で感じていました。さびしくて、涙が耳に入りました。それでも体を起こす力もなく、声を出すこともできないまま、次の眠りに落ちるのでした。母に、布団を一階に移してほしい、みんなのいるところで寝たい、と頼んだとき、母は不機嫌な顔をして、それじゃあ早く治らないよ、と拒みました。「病気の子はうっとおしいから気が滅入る」そんなことを母から直接言われなくても、私には聞こえたような気がしました。また母から嫌われてしまったのだと思いました。

つかれていました。「新しい町にもうまくなじむことのできる、手のかからない良い子」を演じようと頑張ったのに、結局 体がいうことをきかなくて、私はやっぱり、家族にとっては「困った子」として、厄介者の認定を受けてしまったようでした。

きりかぶの町を離れてから、もうずいぶん経ったような気がしました。もう2度と戻れないことを悟り始めたころ、私を襲ったのは、言いようのないさみしさでした。

今でも、あのころの気持ちを思い出すと、胸がしめつけれらるような気がします。

1973年、私の根っこは、あのとき引き抜かれてしまったように感じます。切り株の山の町は、7歳で離れてしまった、私のふるさとなのです。

 

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