子どもは夜泣きをします。
子育てをしていたころ、夜中に子どもに泣かれることが、一番怖かった。
なにしろ「夜泣き」って、原因はわからないし、いつまで続くか予想もつかないし、壁一枚しか隔てていないアパート暮らしだから、きっと近所迷惑になるとも思ったし・・・・。
あの頃、夜中に、ふいに泣き出す私の赤ちゃんは、怖い夢でも見たのか、火がついたように泣いて、泣いて、手が付けられない感じでした。私にはどうすることもできず、赤ちゃんを、クルマの助手席のチャイルドシートに乗せ、上の子を夫に頼んで、とにかく狭いアパートから離れ、迷惑にならないところに行こうと、夜の町へ向けて、エンジンをかけたのです。
そのころ住んでいた町は、夜中に空いている店もなく、信号機までが点滅信号になるようなひなびた町でした。24時間営業のなにかを探して、泣く子を乗せて、私はドライブを続けました。
やっと見つけた24時間営業のあかりは、そのまちの唯一の「スーパー銭湯」でした。私はクルマをとめて、赤ちゃんを抱いて、その銭湯の、誰もいないロビーに入り、ベンチにすわって一息つきました。
いつのまにか、赤ちゃんは泣きやんでいました。誰もいない夜中の銭湯、目の前に、なぜか巨大な白熊のオブジェが、私たち親子を見下ろしていました。
気がつくと、そばに、年配の女性がいました。夜中の銭湯で清掃の仕事をしている女性でした。彼女は、私を見て、すべてを察してくれたように、やさしく話しかけてくれました。
「子どもは泣くもんて」
「だいじょうぶ、二十歳まで 泣く子はおらんよ」
私は、そのときの安堵感を、今でも覚えています。子どもは泣くものなのだと、泣く子をもつ自分を責める必要はないと、彼女に、世界に、許されたのでした。
大丈夫、二十歳まで この子が泣くわけじゃない、いつまで泣くか分からないけれど、子どもは泣くもんだ、と覚悟をきめて、この女性のいうとおり、腹をくくろう、思いっきり泣かせてあげよう、と思うことができたのです。
子どもの夜泣きに、どうしてあれほど私が罪悪感を覚えてしまったのか、なぜ、最初から、あの女性の様に泰然としていられなかったのか、それもやはり私の幼いころの記憶にあるようです。
私の父は、神経質な人でした。子どもの泣き声を嫌がる人でした。狭い町営住宅に住んでいたからでしょう。夜に泣かれて近所迷惑になることを避けたかったのでしょう。私たちは泣くことをを禁じられて育ちました。
もっとも幼いころの記憶の中で、私は父に足首をつかんで逆さにつるされ、窓の外に出されていました。夜でした。私は夜泣きをしていたのかもしれません。あるいは眠くてだだをこねていたのかもしれません。あるいはなかなか眠らずみんなを困らせていたのかもしれません。今となってはわかりません。ただ、私が覚えているのは、私が泣いていたことと、泣いていることを父が憎み、「泣くな!」と怒鳴られていたことです。
今でも、逆さにつるされた自分の頭に血が逆流する感覚と、恐怖と、父の怒りがよみがえってきます。その記憶は体のなかに残っています。
泣くことによって、両親をコントロールしようとすることは、この上もなく卑怯なことで、絶対にしてはいけないこと、両親の気に入らないことをすれば、窓から逆さまにつるされてしまうことを知りました。そして、自分の感情をしまいこみ、両親の気に入る行動をとらなければならないことを、幼い私は深く心に刻みました。手のかからないよい子と言われるように注意深く生きること、それしか生きる道はないように思われました。
それ以来、私の行動の基準は、常に「親の気に入るかどうか」になりました。泣いてはいけない、うるさいほどゲラゲラ笑ってもいけない、親の気に障らないように考えて、自分の感情を殺して、空気を読んで生きることを、ごく幼いころに、私はおぼえました。
けれど、心のどこかで、私は「大人になって、どこか遠くへ行く日が来る」ことを夢見ていました。「もし私が親になるなら、ちがう感じの親になりたいな」とも。
今の私は、あの夜の、夜中の清掃員の女性と、同じくらいの年になりました。沢山泣いて育った私の子どもは、もう二十歳を過ぎました。そして、今の私は、赤ちゃんを抱いているひとを見ると、心から励ましたくなるのです。
思えば、ほんとうに遠くに来てしまいました。マッチに火をつけたマッチ売りのように、私は、あるとき子ども時代の自分に別れを告げたからです。
泣くことを禁じられた子どもに、いまでも時々出会うことがあります。私の嗅覚で、私にはそれがわかります。そんな子どもに出会うとき、「一生分我慢したね、もう泣いていいよ」と言ってあげたくなります。
子どもは泣くものです。思いきり泣かせてあげてください。だれも二十歳まで夜泣きしたりしないから。