私は、贈り物をすることが苦手です。贈る側にとっては、デパートで選んで包装してもらえば、それきり見ることもないまま終わりますが、もらった方にしてみれば、それからの人生の長い時間、見るたびにくれた人のことを思い出し、使い込んで古びても、捨てるに忍びなくて捨てることもできず、まして使わずに「タンスの肥やし」にしたままのモノたちは、もっと申しわけなくて捨てることができず、そんな「モノたちの末路」を思うと、「長く記念になるもの」を贈るなんて、私には恐ろしくてできません。
「趣味は断捨離」と言っても良いくらいの処分好きです。最近の数年間で、モノをずいぶん手放しました。
「ものの処分の方法」にかけては上級者だと自認しています。新しい街に住み始めるとき、なにより先にゴミ処理センターの場所と、その街の「ごみ処分ルール」を確認します。
それは、私が「お金持ち」だからではありません。実は「捨てる方法をマスターする必要がある」くらい、もらうことの多い人生だったからです。
子ども時代の私は2人の姉の着古した服を着て育ちました。姉たちのお下がりを「いらない」とも「嫌だ」とも、一度も思いつくこともなく、すべて受け取るのが当たり前だと思っていました。自分で服を選んだことがなかったため、社会人になって恥をかくほどのファッション音痴でした。
「ありがと。」と嬉しそうな顔をして、姉たちがくれるものを受け取るばかりの人生でしたが、それに対して初めて違和感を覚え、「本当はこんなもの 欲しくもないし、もらいたくもない」と思ったのは、大人になってからのことでした。子育てをしていた私のところに、2人の姉たちの子ども達合計6人分の着古しの子供服が、段ボール箱でぼんぼん届くようになったころのことです。
自分はたしかにお古で育ったけれど、自分の子どもにまで、姉たちの子どものお古を着せるなんて、それはどうしても嫌だ、と体の底から思ったのです。
それでも習い性のためか「要らない。自分で処分してよ」と姉たちに言うことができなくて、笑顔で「ありがと」と受け取ったたまま、こっそり処分するのが私の仕事になりました。
人にものをあげるとき、あげる人は「善いことをした」と信じて気分が良いのだけれど、もらった方はそうとは限りません。大量の着古しの山を、最後に処分する心苦しさを、姉たちは経験することなく終わり、私だけが何度も何度も味わってきたのでした。
たぶん だからこそ、姉たちは今でも買い物が大好きなのでしょう。
私にはお店で売っている既製服が、すでにゴミのように見えることが、ときどきあるのです。その品がやがて、不要品として始末される未来を、つい想像してしまうのです。
自分で選んだものだけに囲まれて生きることは私の夢でした。それがどんなに高価なものでも、誰かに与えられたものを黙って受け取って、罪悪感から捨てることもできず、本当は嫌なのに「ありがたい ありがたい」と自分自身を欺いて一生を終えるくらいなら、持たない方がましだ、ということに気づいたのは、ずいぶん歳を重ねてからのことでした。
先日、私の家の中で、もっとも高価で、大きくて、重いモノを、一気に手放しました。28年前、私の結婚の際に与えられた婚礼家具や着物などの品々です。結納品の人形もありました。ほとんど私の意志も選択もないまま、結婚というイベントの中で一方的に運び込まれた、それら「昭和」のしきたりの遺物たちは、恐ろしいほどの存在感で、家の床を圧していました。処分するなんて、そんな大それた、世間体の悪い、縁起の悪い、恩知らずなことができるわけがないという思いが、まるで呪いの様に私の頭を押さえつけていました。それはまるで絶対に逃れられないいわば「過去という名の祭壇」のような存在でした。
業者さんを呼んで、処分や買い取りをしてもらうことは、決心ひとつの問題でした。ただ、その一歩を踏みだすのに、何年間も逡巡したのは事実です。
「この家の主人は、あの家具たちなのだろうか」「私はあの家具に埋もれ、このまま歳を取っていくのだろうか」「だいそれた決心をする価値が私には、本当にないのだろうか」・・・。
「この人生のあるじは、私だ」「私は、大きな決心に値する人間だ」「あれを背負ったままじゃ、死にきれない!」「嫌だ!絶対に!」
ある日、やっと、そう思い決めることができたのでした。
昭和の遺物たちを手放すのは、ある程度の手間暇をかける必要がありました。供養の手順を踏んだものもあります。それはモノたちへの弔いの儀式でした。
手慣れた業者さんが、一時間ほどで仕事を終えたとき、あまりの喜びに深々と頭を下げて、私はお礼を言いました。「10年来の夢でした。本当にありがとうございました」と。それが大げさでないことを、彼らは知っているようでした。
黴と埃の匂いとともに、すべてが撤去されたあとには、家の床が顔を出し、初めて全開にされた窓から、すがすがしい風が吹き抜けていきました。その窓から、やっと私に「未来」が見えたような気がしました。
体の底から突き上げるような生きる意欲が、じわじわと湧いてくるのを感じました。
私に本当の家族をくれた、大切な過去に感謝をしながらも、それを未来にはもう持っていかない。あの決心には大きな意味があったと自負しています。今日からの私は、さらに軽やかに生きていけそうな気がします。やっと自分の人生の、持ち主になれた気がするのです。