地面に散らかる、ゴミや、朽葉や、埃を、箒で掃き清めて、ちりとりで集め、ゴミ袋に入れます。長く仕事をしてきた中で、この行動を、子ども達とともに、もう何度 してきたことでしょう。ちりとりにゴミを掃き入れる瞬間に、いつも決まって脳裏に蘇る光景があります。
それは私が小学校一年生のときの放課後の教室です。お当番の私たちは、教室の掃除をしています。ちりとりを使っても、最後にどうしても残るゴミかすを気にして、私たちは根気強く、いつまでもちりとりと格闘しています。「どうしても残るね。」「最後のこれ、どうしたらきれいに入るんだろう?」そのとき教室に、先生の姿はありません。いつまでもいつまでも頭を突き合わせて私たちは考えます。ふと私が口にした言葉は「扇風機があったら、風でちりとりに入るのに。」でした。同時に私たちは目を見合わせました。すぐに相手の男の子が床に這いつくばって、最後の塵に息を吹き付けたときの、あの剽軽な姿が、なぜか忘れられません。何十年経っても、何歳になっても、箒とちりとりを手にするたびに心に蘇り、私を笑わせてくれる、幸せな思い出です。
ゴミ拾いをしたあと、美しく様変わりした同じ場所を目の当たりにして達成感を得る、というすばらしい経験をした人には、それぞれの心に幸せな記憶が刻まれるのではないかと思います。そういう人は、その後の人生で 「道にゴミを捨てる」ことは、ほとんどないような気がします。
逆に、街の中で、平気で道にゴミを捨てるような人は、それまでの人生で、一度も「ゴミ拾いで手に入る美しい達成感」といういきいきとした経験を、させてもらったことがないのでは?と想像します。
つまり、この世には二種類の人間がいる、ということです。「道のゴミを拾う人」と「道にゴミを捨てる人」のどちらかです。その両方に属する人はほとんどいないのではないでしょうか。これは私の考えすぎでしょうか。
役員などの立場にたつときも、同じような気持ちになることがあります。同じ立場に立った経験のある先輩は、かつての自分と同じ立場に立つ人に対して、不用意にケチをつけたりしません。その立場の苦労がわかるからか、ただただ温かく応援してくれる人が多いような気がします。
それに対して、人の仕事を批判し、攻撃的な人は、むしろ実は、まったくその立場にたった経験のない人、という場合が多いようです。当事者ではなく、常に外側から、評価することを専門にしながら、実際にはその立場に立たない人ほど、他者へ声高に非難をすることができるようなのです。
つまり、この世には二種類の人間がいる、ということです。「経験して、ケチをつけない人」か、「なにも経験せず、なんにでもケチをつけたがる人」かのどちらかです。言ってみれば「する人」か「見てばかりで、自分はしない人」のどちらかです。その両方に属する人は、ほとんどいないのではないでしょうか。これは私の考えすぎでしょうか。
仮にそうなら、私は「拾う人」でありたいし、「する人」になりたいのです。一度きりの人生です。他人の人生にケチをつける時間など ないくらい、次々に新しい経験を積みたいものだと思います。
同時に、他人の人生にケチをつけたがるような人々に、おつきあいする時間も惜しいのです。50代も後半に差し掛かり、さすがに人生の後半に入ったことを実感すると、今後は、なるべく上質な時間を重ねたいのです。
言いたい人には言わせたいと思います。それを気にするほど、私には時間がありません。人生後半に入った私たちの、渋い言い訳です。