挨拶「させる」大人たちへ

「おはようございます? うん! 良いあいさつだね!合格!」

「おはようございます? あれ? 声が小さいぞ!やりなおし!」

「おはようございます? ん?ん? おはよう ご ざ い ま す!!」

朝から、わざわざ腰をかがめて、うつむいた子ども達の視界に入るように、顔をのぞきこんで、子どもが挨拶をするまで、大きな声で繰り返す学校の先生たち。来るなり「ジャッジ」される、朝の子ども達。

不自然な光景です。

「子ども達があいさつをしなくなった」と心配する人が増えました。

そう言われてみれば、家の前を通り過ぎて登下校をする最近の子ども達にも、マスクと帽子で顔を覆い隠し、うつむいたまま、人と目を合わさないで歩く子が増えました。

コロナ禍で生活様式が変わる少し前から、子ども達はすでに「よその人と目を合わさないように」登下校する時代になってきたことを感じます。

児童誘拐、盗撮、個人情報の拡散など、世の中の変化が、子どもに「他者への不信」を与え、緊張を強いているからでしょうか。

疫病に対する「不安」が蔓延した、今の社会状況を、子ども達は敏感に感じ取っているからでしょうか。

子ども達が、緊張し、少しこわばった姿で、勇気を出して家を出て、学校にたどりついたのなら、少しくらい「あいさつの声が小さくても」勘弁してあげてほしいのです。

疫病が過去のものになり、少しでも世の中の不安が和らぐ日がくれば、もしかしたら子ども達は、子ども本来ののびやかな姿で、大きな声であいさつをしてくれるようになるかもしれません。

その日まで、大人はせめて、子どもが安心できるようなおだやかな声で「おはようございます」と、自然に声をかけたいものです。

かりに、子どもの返事が小さくても、許してみませんか。いまは。

もともとあいさつは「する」ものであって、「させる」ものではない気がします。大人が子どもにあいさつを「させる」という風景に違和感をおぼえるのは、私だけでしょうか。

他人に「挨拶させる」という行為は、一般には、あまり上品な人のすることではない気がします。ドラマで言えば、圧の強めな部活動の先輩、戦争映画の上官軍人、任侠映画では主人公の敵役・・・という役どころでしょうか。

子どもに「あいさつをする人になってほしい」という願いを持つならば、大人はただただ、あいさつをすればいい、不意に顔を近づけたり、妙に大きな声を出したりしないで、適切な距離と声量で、あたりまえの、普通のあいさつをする大人でありつづければ良いと思います。

「挨拶させる大人」は「あいさつする子ども」をたくさん育てているように見えますが、それはその人の前で子ども達が「その人用の」キャラを演じてくれるようになるだけです。その人がいなくなれば、がらっと態度が変わることを、ほかの人は見ていますが、本人だけが知りません。

「挨拶させる大人」は、その子どもを、ただ「人にあいさつさせる」人に育てる可能性があるのです。つまり、今度はその子自身が、下級生に、下のきょうだいに、あるいは自分より立場の弱い誰かに「あいさつしろ」と、強要する人になる と、私は考えます。そしてそれは、次から次へと順々に、終わらない抑圧を産むのです。

子どもは、そう言う風に大人をしっかり見ているものだと思います。子どもを子ども扱いして、自分の思い通りに動かそうとする大人を見て育った子どもは、当然自分も、誰かを思い通りに動かそうとする人になるでしょう。

挨拶「させる」大人たちへ。

あなた自身も、変化の時代に不安をおぼえ、せめて子ども達には、以前と変わらない態度でいてほしいと願うのでしょうか。それは、誰のための「安心」でしょうか。

今だからこそ私たちは子ども達に、「安心」を手渡すことのできる大人でいたいと思いませんか。

飛行機が、乱気流にもまれる日のフライト、揺れる機内で緊張する乗客に、むしろ穏やかな表情で、「安心」を手渡すCAのように、落ち着いた声で機内の空気を緩める機長のように、洗練された態度を身に着けて、「安心」を手渡す大人に、私たちは、本当はすぐに、なれるのです。

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