文化祭で飾られた「切り絵のステンドグラス」です。「何十時間もカッティングナイフを握り過ぎて、指のはらが、ほらこんなにカチカチになってしまいました」と、高校生が誇らしげに語ります。こんなに手の込んだ作品を仲間と一緒に、こつこつと仕上げる根気とエネルギーはどこからくるのでしょう。「2度とできないと思います」彼らはそう言って笑います。「青春の魔法」にかかったのでしょうか。
コロナの感染予防対策のため、保護者や来賓の参観を避け、この秋の行事は縮小されました。それでも 若い人というものは、どんな状況下でも、与えられた条件の中で、自分たちにできることに力を尽くすものだと知りました。彼らは今年の秋が「2度とこない」ことを知っているからなのでしょう。
「体育祭と文化祭 シンプルやったけど、意外と良かった」「親が来んのは逆に良かったかも」「親が来ると気が散るし」・・。
親御さんにはショックかもしれませんが、これが高校生の本音のようです。「保護者のいない学園祭」は、彼らにとって 息子にも娘にも戻ることなく、「自分であること」に専念し、集中して「自分の青春を満喫することができる」という 思いがけない贈り物となったようなのです。
ここ最近では高校でも、我が子が体育大会などの行事で活躍する姿を撮影しようと、ビデオカメラを持って、本気で場所取りをする親御さんが、年々増加しています。閉会式が終わり、応援団が涙する解団式の時間になっても、カメラを片手にした保護者がその周りにいる、という場面も見られるようになりました。
文化祭ステージの楽屋に潜入して、わが子のヘアメイクを手伝うお母さん、という話もききました。
「一緒に青春を楽しみたい!」という親御さんの気持ちはわかるのですが、それが、高校生当人を「気が散る」という気持ちにさせるようなのです。そこに自分の親がいることを認知し、息子役割、娘役割に引き戻される瞬間、彼らの青春の熱は冷まされ、親へとおすそ分けすることになります。私はこれを親による「青春の横どり」と呼んでいます。
人は誰でも、人生におけるある時期に、「青春の主役」であることが許されます。行事の成功に向けて、仲間とアイディアを出し合い、調整し、やる気の温度差や、失敗の不安に苦しんで仲間割れをしたり、仲直りをしたり、信頼関係を結んだり、好きな人に告白をしたり。そこには、「大人の視線」の入る余地のない「当事者性」があります。言ってみれば「大人の存在がないからこそ、自分たちの当事者性が純粋なものとなる」とも言えるのです。
もちろん安全対策として、学校の先生が半透明の存在として遠くから見守るのですが、そこに手出し口出しは少ない方が良いし、なるべく存在感を出さないようにすることが、大人としてのたしなみだと思います。
私たちが高校生だった40年前は、「高校の行事には親は来ない」ことが当たり前でした。あのころ私たちの学校では、クラス演劇が流行っていて、企画、脚本、音響、キャスト、ヘアメイク、音楽監督、大道具、小道具、衣装担当、照明、緞帳と、それぞれの得意分野を全員が担当し、誰ひとり欠けても成立しない舞台を私たちは作り上げました。そこに大人の存在はありませんでした。私たちは最初からそれを求めてもいなかったし、あえて介入しないという暗黙のルールが、当時の大人にはあったように思います。
あの頃の行事の季節を思うとき、今でも夢のような気分になります。あの季節の私たちの、あの酔いしれるようなモチベーションは何だったのか、何が私たちをあんなにも夢中にさせたのか、あれもまた「青春の魔法」にかかっていたということなのでしょうか。
今年は、コロナ禍の副産物として「保護者や来賓の姿のない、自分たちだけの学園祭」という「シンプルな青春」が思いがけなく高校生の手の中に戻ってきました。それは去年にも、来年にもない、今年だけの特別な幸運なのかもしれません。
大人になったとき、今年の秋をふりかえり、「コロナ禍に包まれた秋」が「縮小化されたシンプルな行事の季節」であったと同時に、「青春が自分たちの手の中に戻ってきた季節」であったことを、ずっと記憶してほしい、魔法にかかったような青春の思い出を、大人になっても忘れないでほしいと願うのです。
そしていつか、自分の子ども達が高校生になったとき、彼らから少し「距離」を取り、青春のお邪魔をしないような大人になってほしいと願うのです。