今朝も、新聞のあの記事が、私をぎゅっとつかんで、はなしません。
新聞で、テレビのニュースで、そして SNSで、ネットニュースで、日本のみんなが、世界のみんなが、虐待の動画の拡散と母親の逮捕の事件を知り、心を痛めています。
幼い弟が母親に蹴られている様子を動画に撮って拡散し、助けを求めた兄は、中学1年生だったといいます。母を信じようとして、愛されようとして今日まで生きて来た少年は、「マッチに火をつけた」んだなあと思います。生きるために、親に見切りをつけたこの子は、保護されたあとも、今この瞬間も苦しんでいるのかもしれないと思います。その気持ちを思い、心を深く沈めている人は多いと思います。いますぐ彼に声をかけたい思いが します。
「あなたはまちがっていないよ。子どもを蹴るような人を『それでも育ててくれた親だから』と かばったりしなくていい。
親があなたを大切にしないのなら、あなたは親を大切にしなくて いい。
あなたをいとおしんでくれる親なら、その通りのことを親にすればいいけれど。ひどい親ならひどくしていいんだよ。」と。
「親への感謝」をしたくても、どうしてもできない子どもは、この社会に、意外と多いのではないでしょうか。日本の社会では、そんな統計は取らないし、この「親に感謝できない件」は日常生活ではタブーとされ、口に出すことも許されない空気があるけれど、実際はかなり多くの子どもや成人が親との確執を抱えている、つまり、「親への感謝」を心から叫ぶことのできる人は、そう大多数とは言えない、と私は感じています。虐待のニュースや、家庭内暴力や殺人のニュースを見ても、それはあきらかです。
3月は卒業式のシーズンですね。あちこちの学校で感動的な卒業式が行われています。厳粛な式の真ん中で、なんか唐突に、子ども達が叫ぶのです。「おかあさん、育ててくれてありがとう!」。そして保護者席からすすり泣く声がして式はフィナーレを迎えるのです。
この場面に対して「やらせ感」や「言わされてる感」を感じ取ったり、親に感謝なんてできないけれど、このおめでたい日に水を差すようなことは言えなくて、でも、将来、卒業式の記憶を思い出すたびにぬるっとした違和感がおまけでついてくるだろう子どもたちの気持ちを思ったりする私は、きっと「ひねくれている」とか「病んでる」といわれるのでしょう。多くのイベントの主催者サイドの人たちは、きっと感謝したくなる親を持つ人が多いんだろうなと思います。
ただ、「おかあさん、ありがとう」という言葉は、その子が親とふたりきりのときに、小さい声で言えばいい、そんな個人的な言葉ではないでしょうか。
なにも、「母親のいない子」がいたりするかもしれない式場で、来賓の方々にちゃんと聞こえるような大声で、絶叫しなくてもいい言葉だと、私は思います。
「ありがとう」と言える子どもを育てたければ、「ありがとうと言いましょう」ではなくて「ありがとう」と 大人が言えばいい、それで子どもが言わないとしたら、そのときは諦めればいい、私はそう思います。
この「ありがとうと言いましょう」の「むりやり感」は、小学校に広がる「二分の一成人式」にも「道徳教科」にも共通していると感じます。
子どものこころに手を加えるエネルギーがあったとしても、その手をあえてひっこめる分別が、大人に欲しいと思います。その方が上品な大人の姿を見せることになるのではないかなと、私は思います。