子どもは2人で豊かな暮らし(?)

 

「我が家は、子どもがひとり、多すぎるんだなぁ・・・」

ある日、父が妙なことを言い出しました。1974年のことでした。彼によると、「国が定めた『標準世帯』は、子どもがふたりなのに、我が家は三人もいるから、いろいろお金もかかるし大変なのだ」というのです。それもわざわざ、三番目の子どもの私に向かって、大真面目に言うのでした。

子ども心に、さすがに 「自分の父ながら、ひどいことを言うものだ」と、内心私は傷つきました。なぜ急に父がそんなことを言い出したのか、わかりませんでしたが、怒りを覚えるほどの自尊心も そのときの私にはありませんでした。ただ、さびしい気持ちで「そうなのか、ひとり多すぎるのか」と思っていました。私がもし男の子だったら、「多すぎる」なんて、父は言わないんだろうなあなんて、ぼんやり思っていました。すべては自分の性別のせいにしてしまうのが私の考え方の癖になってしまっていました。

父がそんなことを言いだした理由は、後年になってわかりました。そのころの日本では、第二次ベビーブーマーによる人口増加や、オイルショックによる物資不足のあおりを受けて、「人口抑制策」に舵を切ったのでした。政府主導の「日本人口会議」が打ち出したスローガンは

「子どもはふたりで豊かな暮らし」だったそうです。『標準世帯』とは「国」が家族の単位を「基準」として両親と二人の子・・4人と決めたというのです。その当時は、4人家族が多数派だったというわけです。

「お上のいうこと」を信頼し、「世間並み」をよしとする、単純な父が「我が家はひとり多すぎる」とつぶやいた理由はここにあったのでした。

もしも、その当時のうつむいた自分のそばに、いまの私がいたら

「子どもじみた あんなお父さんの言うことなんか、気にすることはないよ、世間よりも国よりも、大切なのはあなたの命だ。多すぎるとか、よけいなお世話だ!あなたはあなただよ!」って言ってやりたいと思います。そして、父に向き直って「目をさましなさい! なんてことを言うの!大切な我が子にむかって!」と叱りつけたい思いがします。

子どものいのちを、多いとか少ないとか評価するのは、思えば傲慢な大人のすることです。子ども自身のこころには、そのひと言が「さびしい記憶」となって生涯消えないからです。

国の方針だって、うかつで愚かな話です。人口抑制や人口増加を国の方針として、ああしろ、こうしろと、そのときの気分でぽんぽん方針を打ち出して、あっという間に国力を損ない、今は少子化にあえいでいるのです。今度は急に産めよ殖やせよと国がまた言っています。

社会の役目は、産みやすい、育てやすい世の中をだまってつくること、それだけです。

高齢者が多すぎる、と言われて、傷ついたり怒ったりしている人は多いと思います。そうですね、そんなこと、誰のせいでもないのに。

だとしたら、子どもの命の数も同じです。

子どものいのちも、多すぎる とか 少なすぎる とか、カウントして評価するのは傲慢です。それは誰のせいでもないし、まして本人の責任ではないからです。

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