小学校6年生の夏に、山の「青年の家」で「スポーツ少年団合同合宿」に参加した夏の思い出です。
合同合宿が始まって、2・3日たった日の、彼らの登場は唐突でした。
真っ白な肌と金色の髪を持つ20人ほどの少年たちが、ぞろぞろと目の前に現れたのでした。
ひょろひょろと背の高い彼らは、押し黙ったまま、にこりともせずに整列しました。長旅を経て、わけもわからずこんな山の中に連れてこられた、というような、疲れの色が見えました。
私にとっては、生まれて初めて見る、異国の人でした。
少年たちの肌は、あまりにも白く、手足に浮かぶ産毛が金色に光っていました。緊張した瞳はガラスのように透明で、現実離れして見えました。
いつのまにか会場には「歓迎! ドイツ・スポーツユーゲント御一行様」と書かれた、はでな横断幕が掲げられていました。
今思えばそれは、日独のスポーツ協会の交流事業で、遠い日本まで連れてこられたドイツ人の少年たちだったのです。
敗戦から復興し、「平和の祭典」1964東京オリンピックを成功させ、国際社会に名乗りをあげた日本は、さらにスポーツの底辺を広げるべく全国でスポーツ少年団を立ち上げながら、国際交流事業としてドイツと日本の子どもを行き来させることを始めていたのです。
そんな事情のわからない私たちは、突然目の前にあらわれた「ユーゲント」たちの登場に、ただ、あっけにとられていました。彼ら自身も、いくぶん居心地の悪い様子でした。
その交流で、ひとつだけ印象に残っていることがあります。
それは「ラジオ体操」をめぐるものでした。
「朝のつどい」で私たちが、ごく当然に「ラジオ体操」をしたとき、ドイツの少年たちはラジオ体操を知りませんでした。代わりに彼らが披露したのは、身体をほぐす程度の、妙にカジュアルな準備運動でした。
「ラジオ体操を知らないなんて!」と私は驚きました。
「ラジオ体操」は、それほど当時の私たち日本の子どもにとって、「絶対」でした。
「地獄の教室」では、「ラジオ体操がだらしない」という理由で殴られました。
夏休みの朝、早朝のラジオ体操に行かないことは、怠惰として断罪されました。
神聖なるラジオ体操は、きっと世界中の常識であると、当時の私は信じていました。
それなのに、目の前のドイツの少年たちは、ラジオ体操を知らない、ということに、私は強いカルチャーショックを受けたのです。
あの時の違和感は、後年思いがけないかたちで氷解することとなりました。
ラジオ体操の生みの親は、実はドイツ人の教育学者シュレーバー博士であったことを知ったのは、ごく最近のことです。戦前のドイツを席巻した、その教育法や体操は、戦後30年の、あの日の少年たちの頭上から消えていました。そして、体罰を推奨したその教育法も体操も、なぜか日本の私たちの頭上には、まだ色濃く残っていたのです。それらを息苦しいと感じ、そう感じることさえ禁じられていた私の、本当の気持ちが、ほんの少し、芽吹いた瞬間でした。
あの日のスポーツ・ユーゲントたちが、私に残した最大の印象、それは「ラジオ体操を知らないなんて!・・なんて羨ましい!」それが私の本心だったのです。