『新学期になったのに、まるちゃんは今年も3年生 なぜって3年生がカワイイから、作者が勝手に進級させなかったのです。(サザエさんをお手本にしました)』そういってまる子ちゃんは、永遠の小学校3年生を決め込んでしまいました。
私も、サトウ先生のもとで「ぼやーっ」としている小学校3年生のまま、永遠にまわっていられればよかったのに、あのころ何度そう思ったかしれません。新学期から始まった小4のクラスは、「地獄の教室」だったからです。
小学校4年生の時の担任の先生は、「こわい」と評判の男の先生でした。どこかの国のリーダーを思わせるような大きな体と雷のような声、そして鋭い目つきの恐ろしい外見をもっていました。
罰をくわえるときは「目をつぶれ」とか「歯をくいしばれ」という声とともに、鉄拳制裁が加えられるのでした。平手だか、拳だか、とにかく自分の体が吹っ飛んでしまい、起きて体をもどすと、今度は逆方向に吹っ飛ばされるのでした。最初の鉄拳は体育の時間、「整列なのにまっすぐにならべていないから」という理由だったのを、鮮明に覚えています。
何が悪かったのか、反省するまもなく、次の罰が飛んでくるため、とにかく毎日生きるのに必死でした。
先生は、他の先生のことをとことん悪く言って、職員室には行かず、教室にマイ下足箱とマイ印刷機を持ち込んでいました。隣の先生とは仲間関係を持たず、自分のクラスだけを特別に扱い、スパルタ式に鍛え、自分の指導力を目に見える形で示していました。彼のクラスの生徒になった私たちは、体罰を受けながらその恐怖政治に耐え、全体主義的な指導を受けて日々を生きていました。彼に洗脳され、意識の表面を削られて、すっかり塗り替えられた私たちは「先生はすばらしい人。先生のことを尊敬している。先生についていきたい」と、涙がでるほど思いこみ、忠誠を誓って服従しました。私たちはまず朝早く登校し、グラウンドの上にランドセルをおいて、トラックを二十周走りました。体を鍛えてクラス対抗のマラソンにそなえるためでした。弱い子どもや、できの悪い子ども、家が貧しくてお風呂にあまり入れず、不潔な子どもは、みんなの前で、先生自身がこき落ろしたり、ばかにしたりしていました。彼はいわゆる「学級王国」の専制君主でした。
彼は「密告制度」も取り入れました。悪いことをした友達を先生に密告すれば、その子は先生から褒められるのでした。私たちはたがいに話すことはなくなりましたが、どうすれば先生に気にいられて、攻撃されずに生きることができるのか、毎日必死で考えていました。
かれはまた、私たちにきつい教科の課題を課しました。計算ドリルや教科書の書き写し、漢字の書き取りなど、とにかく「力業」で学力をつけようという作戦でした。やったぶんは、自己申告で壁の棒グラフにシールをはり、子ども同士の競争心をあおるのが上手でしだ。シールがなかなかはれない子どもは、みんなの前で罵倒され、人格を否定されました。
「圧力」と「脅し」と「成果主義」だけで、世の中がうまくいくわけはありません。そこには往々にして不正が生れるのです。日々追い込まれ、まだだめだ、まだだめだ、結果を出せとたたかれれば、必ず人は、粉飾決算を提出するようになることを、私は知っています。あのころの私が、そうだったからです。
小学校4年生の私は、ある日、私自身の「学習の記録」の棒グラフにごまかしがあるということを、先生から指摘されたのでした。抑圧におびえ、なんとか責められないようにした結果が、私の「ごまかし」であり「ズル」でした。家の中の私とまったく同じです。叱られ過ぎて、あなどられ過ぎて、もう勘弁してほしいと願い、結局「嘘つき」の汚名を、ここでも自らひきよせてしまったのでした。
先生は、みんなの前で私の卑怯を暴き、私を平手で打ち、立ち上がる私をまた殴り、こんな人間の屑は見たことがないと罵りました。私はその苦痛に耐えられず、怒られながら血の気がひいてしまい。その場に倒れてしまいました。「嘘つき」のレッテルを貼られた私は、気分が悪くなってたおれても「演技をしている」と言われました。なぜならば「嘘つき」だからでした。
放課後、ひとりで罰掃除をしていると、仲良くしていた男の子から、「つまらない人間だったんだね」と棒読みで言われました。その子が先生からそう言わされていたことに、当時の私は気づきませんでした。ただ、自分がこの世で一番いやしい人間であることが、みんなにばれてしまった以上、この町で生きていくことは地獄だ。早く大人になって、誰も知らない所へ行きたい、そう心に願っていました。同時に、人生で、これほど苦しい日々は、もう二度とあり得ないから、生きてさえいれば、わたしの人生はましなはずだ。どんなひどい目にあっても、これよりつらいことはない、だから私は大丈夫だという、妙な自信を持ったりしました。
その先生は、私たちを受け持った年の学期末に、町外れの小学校に転勤になりました。そのクラスの子どもが、何人も学校に来なくなり、転校したのが理由だったということを、あとになって大人が噂していました。本当はどうかはわかりません。
それでも私たちの洗脳は解かれることはなく、「すばらしい先生がいなくなって残念でしかたがない」という発言をうわごとのように繰り返し、親や周囲の大人を困惑させたり、本気で怒らせたりして、ひどく叱られたりもしました。なんだか、いろいろな大人達の感情で、私たちは小突き回されていたような感じでした。
小突きまわされすぎて、抑圧されすぎて、自分の感情がどこにあるのか、よくわからないような気持がその後何年間も続きました。地獄の教室で体罰を受けながら、自分の姿を教室の天井の方から眺めているような錯覚に陥ったことが一度だけありました。あれが精神医学で言う「離人」という危険な状態であったことも、あとで知りました。また、悲しいはずの場面で涙がでてこない、親しい人の死にも悲しみにも感情がほとんど出てこないという後遺症にも苦しむことに、なったのです。
自分のこころが、世界のはじっこまで行ってしまったような感覚を、10代の間ずっと持っていました。そのふちから落ちてしまわないように、自分自身をひっぱりもどす作業が、わたしにはどうしても必要だと、10代の終わりに私は確信しました。こころのきりかぶをのぞきこむと、そのころの部分だけ、黒っぽい色に見えるような気がします。