光明皇后という人のこと

今日は古紙回収の日でした。思いきってたくさんの本を処分しました。

最近、電子書籍を利用するようになり、文字を大きくして読むことができる機能に「これなら老眼にも優しい」と安心しました。好きな作家の「文学全集」が、まさかの99円で手に入ることにも気づき、その手軽さと安価さに愕然として、「ああ もう時代は変わったんだ」と思いました。永年つきあった本の数々を、その黴臭い埃とともに手放すことにした私の背中を押したのは、電子書籍でした。本を断捨離したことで、家の中も頭の中も、ずいぶんと すっきりしました。

それでもどうしても、手放すことの出来ない本があります。子ども時代から好きだった児童書「お話宝玉選」です。

この本は50年前、姉たちからのおさがりとして私に廻ってきたものですが、姉妹の中で一番長い「ひとりの時間」を与えられた私は、誰よりもこの本に親しみ、自立しても引っ越ししても、この本は私の手を離れませんでした。佐藤春夫が編者となり、こどものために、古い「お話」・・仏典、聖書、落語、狂言、故事成語、神話、歌舞伎、オペラやバレエの戯曲などの世界中の古典をわかりやすく示し、なんと200話ものお話がくりひろげられるのでした。子ども時代の膨大な時間をもてあましていた私には、ありがたい本でした。

この中に、「光明皇后」というお話があります。ちょっと長くなりますが、紹介します。(原文のママです、時代が古いため、一部表現に問題がありますが)

今から千年以上も前に、聖武天皇というおかたがいました。聖武天皇は信心深いおかたで、日本中の国々に、たくさんのお寺を建てました。奈良の大仏で有名な東大寺も、聖武天皇がお造りになったものです。

聖武天皇のおきさきに光明皇后という、たいそう美しく、心の優しいかたがいました。

皇后は、みなしごたちを、町中から引き取って育てました。また、身寄りのないおじいさんや、おばあさんが、住む家もなくて困っていると、その人たちも引き取って世話をしました。そのうちに引き取った子どもやお年寄りが、おおぜいになりました。皇后は、一軒の家を建てて、みんなをそこに住まわせました。その家に、悲田院という名前をつけて、それからも、きのどくな人たちが安心して暮らせるようにしました。また、貧しい人はお金がないから、病気になっても、お医者にかかることができません。光明皇后は、そのことでも心を痛めました。『みんなが安心して、お医者にかかることのできる場所を作りましょう。』と、お考えになって、施薬院という名の病院を建てました。それからというもの、貧しい人たちは、施薬院でお医者にかかれば、お金を払わないですみました。よいお薬も、ただでもらえました。『優しい光明皇后様』みんなは、光明皇后を慕いました。(中略)

慈悲深い光明皇后は、どんな悪い人でも、やさしく教えみちびいて、世話をしてやりました。そのころ、まずしい人たちは、おふろに入ることができませんでした。皇后は、かわいそうに思って、『だれでもはいれるような、おふろを作りましょう。』と、ご殿の中に大きなおふろを作って、貧しい人たちを、入れてあげました。おじいさんも、おばあさんも、若い人も、子どもも、みんな喜んでおふろに入りにきました。皇后は、ひとりひとりの背中を、洗ってあげました。『さっぱりといたしました。皇后さまに背中を洗っていただいて、うれしゅうございます。』みんな、気持ちよさよさそうに帰っていきます。

ある日、皇后がおふろ場で、人々の背中を流してあげていると、入り口のほうで、なにか騒ぐ声が聞こえます。『どうしたのですか』皇后は入り口に行ってみました。『皇后さま、きたないこじきが、おふろに入りたいというのです。いくら断っても、動こうとしません。』役人は、顔をしかめて、こじきをにらみつけていました。

『まあ』皇后も、びっくりしました。こんなきたないこじきを見たのははじめてです。からだじゅうにはれものができて、うみが流れ出ています。顔もはれあがって、目や鼻がどこにあるのかわからないほどです。ぷうんと、いやなにおいがしました。

『皇后さま、こんなきたないこじきがおふろにはいると、あとから、人を入れることができません。』役人は、鼻をつまんで言いました。『おふろのお湯も、くさくなるのに決まっています。』

皇后は役人のことばを聞いて、とても悲しく思いました。かわいそうな人を入れてあげるために、わざわざおふろを作ったのです。それなのに、役人は、いちばんかわいそうなこじきを見て、いやがっています。『私は、ありがたい仏様に、千日の間、どんな人でもおふろに入れて、親切にしてあげますと、お約束したのですよ。さあ、このかたを、すぐ、おふろに入れてあげましょう。』皇后は、こじきをおふろに入れてあげました。(後略)

・・・・このあと、皇后は、この人から背中を流すことを要求され、家来がとめるのも聞かずに、一生懸命その汚れた人物の背中を流します。(このあたりの様子は、アニメの 『千と千尋の神隠し』で描かれているような気もしますが)あまりの不潔さと臭いに、気を失いそうになったとき、その人は振り返って、光り輝く仏様に変身し、光明皇后をねぎらう・・・という結末になるのです。

子どものころから私は、この同じページを何度も何度も繰り返し読み、この光明皇后という女性が、こころから消えませんでした。ぼろぼろになった、この本のなかでも、このページは特に劣化がはげしくて、紙が破れ落ちています。

大人になって、調べてみると、「光明皇后」という人はたしかに聖武天皇の妻で『悲田院』『施薬院』を建立した、日本で最初の社会福祉の人であり、仏道の千日行を自らに課して、毎日、ふろ場で人々の背中を流した、という歴史上の人物でした。奈良県の法華寺というところに、彼女が人々のために作ったお風呂がいまも現存しているということです。もちろん、仏様が変身して潜入捜査する などどというくだりは、のちのち誰かが付け加えた伝説なのでしょうが、幼い私の心に住み着いた、この女性への思いは、ずっと変わりません。

しかも、先日テレビで特集番組を見て、たまたま知ったのは、彼女が私の大好きな、あの「阿修羅像」を作らせた人であるということ、実は彼女には、聖武天皇との間に生まれたものの幼くして命を落としたひとり息子がいたということです。息子の死を悼み、悲しみにくれ、そのおもかげをしのぶため、「阿修羅」の姿を、本来の屈強な姿ではなく、美しい少年のような姿に造形させた、それが光明皇后という女性の、もうひとつの真実だったのでした。

その事実を知ったとき、彼女のこころが、さらに近づいてくるのを感じました。

悲しみをたたえた彼女だからこそ、命あるものたちへの、限りないやさしさがあったのでしょうか。彼女が手を尽くし、仏に姿を変えたた病気の人は、実はハンセン病の人だったという一説もありました。子どもや、老人や、差別される人や、病気の人に、セーフティネットを作るという社会福祉の姿勢だけではありません。弱者を見下し、差別する家来たちに心を痛め、悲しみ、真剣に教え諭す彼女には、やさしさだけではなく、周囲の人にまどわされない強い意志をも感じます。

光明皇后は、私が人生のごく早い時期に出会った「ほんとうの大人」でした。理解力の低い私には、宗教や社会福祉や皇室や政治や歴史などのいっさいは、わかりませんでした。ただ、背筋の伸びた生き方をした、ひとりの人物へのあこがれだけがあったのです。

 

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