会話が「ごちそう」(父の山の家)

モノクロの写真が一枚あります。田舎の家の縁側を背景に、大勢が写る家族の写真です。最前列の中央に写っているのは、4歳くらいの女の子、これが私です。夏の帽子を被り、ノースリーブのワンピースを着ています。その私をしっかり抱き寄せているのは祖母、少し離れたところに、父の兄である私の伯父が笑っています。ふたりとも、もうこの世の人ではありません。そして二人は、私の心の中では、私の理想の両親です。私はそう心に決めています。

夏休みになると、私たちは父の実家に帰省しました。

父の実家は、山奥にある農家でした。早逝した祖父は、すでにいませんでした。祖母と、父の兄と、その家族、いとこ達が私たちを迎えてくれました。

父の兄である伯父は、明るくおおらかな人でした。禿げ上がった自分の頭を話題にして、いつも私たち子どもたちを笑わせてくれました。座敷の真ん中に座り、周りにいる大勢の親戚や子どもたちに、まんべんなく声をかけ、そこにいる一人一人を尊重し、話題を引き出し、うなずいたり、感心したり、おどろいたり、おどけてみせてくれました。

テレビに出てくるどんなコメディアンよりも、このおじさんの方が面白い、幼心に本気でそう思っていました。

彼の前に座り、明るい会話を聞きながら、時々自分に向けられた質問に答えていると、自分が唯一の、特別な存在になったような気がしてくるのです。そこにいるすべての人を満たされた気持ちにさせるのが、伯父は上手でした。

「大切に扱ってもらえる」「自分の話を聴いてもらえる」ということは、何よりも素晴らしい「ごちそう」であり、その幸せを相手に手渡すことのできる大人が、本当に素敵な大人なのだ、と、子ども心に私は感じていました。

祖母は、文字通り「仏様」のように優しい人でした。若くして夫を亡くし、苦労して一家を支えた女性でした。孫の中でいちばん小さい私を気にかけてか、守るように、いつも傍に置いてくれました。

山の地蔵さまに、毎日お花を上げに行く祖母に、私一人でくっついて、山道を歩きました。

仏壇に手を合わせる祖母をいつも下から見上げていました。手を延ばすと、限りなく柔らかな、祖母ののどの下のたるんだ皮膚の感触が、手の中によみがえってくるような気がします。手を合わせて、ぶつぶつつぶやく祖母に、「なん言いよん?」と問いかけた私に「なんまいだぶ、なんまいだぶ」と教えてくれました。

私が風邪をひいたら、たまご酒を少しお湯で薄めて砂糖を入れて飲ませてくれました。すりおろした林檎を甘酒に合せてくれました。おいしい思いをさせてくれるために、心を尽くしてくれることが伝わってくる、そんな人でした。

受け取った小包を、それはそれは丁寧にほどき、紐一本も、紙一枚も無駄にせず、きちんとまとめてひきだしにしまうような人でした。はぎれを縫い合わせた巾着袋を大切に使っていました。物のない時代をこえてきた人だからかもしれませんが、そんな丁寧なしぐさの一つ一つを懐かしく思い出すのです。

私は確かに彼女に愛されていたし、受け入れられていました、生きているだけで、私は十分許されていました。祖母の前なら、良い子でなくても、挽回しなくても、私のままで許される、そんな感覚でした。しかし、それはあまりに断片的な、短い季節だったように思います。

いとこ達と山に入り、ニッケの木の根を口にくわえたり、渓流で水遊びをしました。遊び飽きることはありませんでした。蚊帳を釣る祖母に叱られても、あまりのワクワクに、奇声をあげながら、蚊帳をくぐって遊びまくった夏の夜の記憶。

そんな季節が終わると、私たちはまた、父の勤務地のある山間部の寒い町に戻り、町営住宅の暮らしに戻ります。そして、長い長い一日の日々が、また始まるのです。

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