「塔の上のラプンツェル」に見る『愛』について

部屋の中で17年間もステイホームした女の子が、18歳の誕生日の前の日に、生まれて初めて「外に出る」物語、「塔の上のラプンツェル」は、ディズニー社が莫大な費用をかけて、世界中の18歳の若者に、18歳のこころを知っている大人に、そしていつか18歳を迎える子ども達に贈った作品だと思います。

最近無性にこの作品を、18歳の若者たちとともにビデオ鑑賞したくなりました。最近のITシステムは音響も画面も素晴らしく、彼らは食い入るように見入っています。息もつかせぬ展開と、美しい映像と音楽、伏線をすべて丁寧に回収する胸のすく結末、明るくて前向きなヒロインと、自信家のわりにまぬけな盗賊フリン=本当の名前はユージーン の出会いと冒険。

以前、「ラプンツェル、髪を切る」の回で、この物語を「支配からの自立の物語」とだけ紹介しましたが、このごろふと、さらなるテーマに気づきました。

ここからはネタバレになりますが、それに気づいたのはラスト近い、塔の中での、魔女のゴーテルとの対決のシーンです。ラプンツェルは、自分のせいで命を落とそうとしているユージ―ンを助けるためになら、自分自身が永遠に魔女の犠牲になることを選びます。一方、ユージーンは、自分が助かることを諦め、ラプンツェルを犠牲から救うために、彼女の髪をばっさりと切ってしまうのです。互いを思いあうこのシーンを見たとき、以前はなにも感じなかったのに、初めて胸があたたかくなりました。そして気づいたのでした。「これが『愛』だ」ということに。

その人のしあわせだけを祈ること、たとえそのために自分が去ることになっても、忘れられても、ただただその人のしあわせを、まっすぐ願い、考え、行動すること、それが『愛』なのでした。

『愛』の対極にあるのは、もちろん『エゴ』です。『エゴ』に打ち勝つものは『愛』なのです。

『エゴ』は、「あなたのため」と言いながら、相手を支配、拘束、利用し、自分の利益しか考えない、まさしく魔女ゴーテルの生き方そのものです。

「外に出たい」というささやかな夢を語るラプンツェルや、彼女のために作られたティアラ(王冠)や、彼女とユージーンの心の触れ合いに対して、魔女ゴーテルがあんなにも警戒し、恐れたのは、自分の中にある『邪悪な魂』に対する最も危険な存在、つまり『愛』の予感を、それらに感じ取ったからなのだと思います。

17年間のステイホーム生活を強いられた先に、希望を胸に勇気を出して旅に出るラプンツェル。心の中にあたたかい思いやりと愛を育てることを忘れなかったラプンツェルの存在は、私たちの近未来に希望を与えてくれます。

私たちも、やがていつか自由に旅をすることのできる日がくるでしょう。その日が来たら、ラプンツェルのように、空一面に広がるランタンの光を見るためだけに、旅に出ましょうか。それとも、彼女の国の村人のように、楽しく踊って乾杯をしましょうか。誰もが持つ「夢」を叶えるために、未来への一歩を踏み出しましょう。

胸に灯る「愛」を、できれば消さずに温めたいものです。全世界の人が、互いのしあわせを祈り、ひとを大切にする「愛」を持つことができれば、この世にはびこる、邪悪な「エゴ」に、押しつぶされることなく明るい心のままで、その日を迎えることができると思うのです。

 

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です