1996年の夏、喘息に苦しんだ妊娠期間を乗り越えて、私は無事に2人目の子どもを出産することができました。
分娩室で「女の子ですよ」と言われ、「ありがとう」と喜ぶ私に、助産師さんはこう言いました。「じゃ、上のお子さんは男の子なのね」この言葉に、特に意地悪な気持ちはなかったのでしょうけれど、私はこころのどこかに鈍い痛みを覚えました。なにげないひとことで、私の産みだした大切な命が、息を始めた一秒後に、また、一本の線を引かれ、仕分けられてしまったのでした。
分娩室で、授乳室で、何度も何度も繰り広げられるのは「男の子か女の子か」という話題でした。
産院にいても、お祝いの言葉を受けても、「おめでとう」の次の質問は、必ず「で、どっち?」でした。この世は本当に男、女、男、女とやかましいところでした。
「男だろうが女だろうが、関係ないでしょう!」本当はそう叫びたいと思っていました。しかし、そのこだわりに一番足を取られていたのは、実は私自身だったかもしれません。
自分が女性であることに罪悪感を抱き、ビハインドを抱えたまま勝てないゲームの様に、常に性別意識が、頭のどこかを押さえつけ、それに対して理由のわからない怒りをかかえていたのも事実です。
そのころの私は、「ジェンダーバイアス」(性別役割意識・性別への偏見)と言う言葉も知らず、それにふちどられたこの社会の構造にも気づかず、ただただ、自分の持って生まれた性を憎んでいました。自分で自分を差別していたのだと思います。
やがて社会の話題として「ジェンダー」という言葉が語られはじめました。「男の子は強くあるべき」「女の子は優しくて、男をたてるようにふるまうべき」という、透明なメッセージが社会にはあって、私たちはそれを空気の様に吸い込みながら大きくなり、今の今までそれをうたがいもせず当たり前のこととして生きて来たけれど、それは実は、そうしておいた方が都合の良い人たちによる、無意識の同調圧力なのではないか、という気づきでした。
その概念をはじめて知ったとき、私の中で音をたてて響くものがありました。
もしかしたら、私たちは気づかない間に「秩序ある男性中心社会」の協力者として仕立てられていたのかもしれないし、そしてそれをまた、わが子にに気づかないままに手渡してしまう可能性があるかもしれないことにに、やっと気づいたのでした。
そのころはインターネットも普及していませんでしたが、さまざまな人がこの話題にふれる記事を書いているのを読み、「女性という性別」の意識に苦しんできたのが、決して自分だけではないことを知りました。上のきょうだいに兄を持つ女性も、下に弟を持つ女性も、それぞれの立場で「あなたは女の子なのだから手伝いなさい。男の子とはちがうんだから」と言われ、性別役割意識を刷り込まれ、悔しさを抱えて生きてきたことを知りました。
当時はまだ、セクハラということばも、ジェンダーという言葉も一般的ではありませんでした。そのことについて話題にしただけで、男の同僚たちに一斉に嫌がられるような時代の空気がありました。同僚の9割以上を占める男性たちは、その新しい言葉を、流行り病かカルト宗教のようにはねつけたものでした。
男性ばかりではありません。地域の集会では、座敷に並ぶ男性達のために、甲斐甲斐しく立ち働く女性の群れが、無言のうちに「あなたも私たちのようにするのよ」という空気を醸していました。そこにジェンダーフリーをさしはさむ余地はありませんでした。
私は「旧来の男性優位社会の秩序」を守ろうとする人々の存在を思い知ったものでした。働く中で、パワハラも、マタハラも、セクハラも受けました。この悔しさや情けなさを、私の後輩や、私の娘が、また味わうのかと思うと、やるせないような気持にもなりました。
1990年代が、もうすぐ終わろうとしていました。