イミテーションの花

この家に住み始めて、もう20年になります。当時は田んぼの中でしたが、今ではすっかり住宅地になって、あのころの私たちのような「子育て家族」が次々に移り住んできました。だから、この辺りでは、近所の家々から、いつも小さな子ども達の声が聞こえます。小学校に向かう子ども達が毎朝、決まった時間に、我が家の家の前を、通っていく姿を見ることもできます。小さい体に大きなランドセルを背負って、たいていは少し緊張した表情で、子ども達は歩いて学校に向かっています。「いってらっしゃい」と心につぶやきながら、その姿を目で追うことが、毎朝の私の日課です。そして自分も仕事に出かけるのです。

彼らは、まったく気づいていないようなのですが、私は、ひとりひとりの顔をだいたい見覚えてしまいました。友だちの家に迎えに行って、毎朝長いこと待ってあげている子、かたい表情で地面を見つめて歩いていく子、最近スポーツクラブに入ったのか、妙に朝早くジャージ姿で行ってしまう子・・・。

それぞれの子ども時代を、それぞれが一生懸命に生きていて「もっとがんばらなくては。なにものかにならなくちゃ。」と思っているように見えます。

「そんなに思いつめなくても、そんなに頑張らなくても、あなたはじゅうぶんすばらしいのに」「みじかい子ども時代を、もっともっと楽しんで!大人時代になったら、ものすごーく長いんだから」と、声をかけたくなるのです。もちろん、変なおばちゃんと思われたくないので、何も言いませんが。

ただ、子ども達が、毎あさ、私の家の前を通るときに、どうか少しでも、明るい気分になってくれれば、と思いつき、数年前から、門扉の外側に四角に切った小さい花壇を「花」で飾るようになりました。

イミテーションの花を、100円均一の店で買ってきて、それを土にそのまま突き挿すという、いかにも手抜きの方法なのですが。

春はチューリップ、やがて紫陽花、ひまわり、コスモスと、イミテーションの花々は、季節ごとに姿を変え、子ども達をだまし続けてくれています。

・・・・子ども達は、笑ってくれるでしょうか?「ここのうちの人、変な人!」と心でオモシロがりながら、わが家の前を通ってくれるでしょうか?それとも、本物そっくりの「イミテーションの花」に、まったく気づかず、そういう花だと信じ込んで、通り過ぎていくのでしょうか?

それとも、そこに花があることにさえ気づかない程、学校生活を思いつめて、重く余裕のない心で、通り過ぎていくのでしょうか。そうでないことを祈るのですが。

若いころ、どんなに忙しくても、この花壇に花を植え、彩りを絶やさないように頑張っていた頃もありました。マリーゴールド、ペチュニア、サルビア、ビオラ、パンジー、チューリップ、プリムラ、ムスカリ、日日草・・・・・。ひととおりの花々に挑戦して、やがて疲れてしまいました。夏の暑さに花を枯らしたり、忙しさに、花を植え替える時期を逸して、焦ったり落ち込んだりすることに、すっかり疲れてしまったのです。

そして、あるとき、ふっと思ったのです。

イミテーションの花でいいじゃん、今の私に、花を育てる余裕がないのなら、そんなに無理して頑張らなくても、本物じゃなくても、100均の花を突き挿したっていい。ふざけていると思われてもいい。それも楽しいかもしれないから。

それで、子ども達が、もしかしたら、気づいてくれて「あれ?なにこれ?変なの!!」ってくすくす笑ってくれたら、そうして学校に行く道が、少しだけでも楽しくなってくれたら、もっといいのに。

Mr.childrenの「イミテーションの木」という歌があります。

「イミテーションの木の下を、少年が飛び跳ねている それを見た誰かの顔がほころぶ」「こんなふうに誰かをそっと癒せるなら」「張りぼての命でも 人を癒せるなら 本物じゃなくても 君を癒せるなら」・・。

本物じゃなくても、私のイミテーションの花も、子ども達を励ますことができたらいいのに、子ども達が、学校に行く道で、顔をあげて歩いて、今日を面白がったり、それぞれの日々を楽しんだり、うきうき、わくわくしながら過ごすことができたらいいのに、そう願っているのです。

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