やがて親になる人のために

都会の電車に乗る度に違和感を持ちます。老若男女の中で、赤ちゃんを抱いた人がひどく少ないことにです。この街の子どもたちは、どこにいるのかと不思議に思うほどです。ごくたまに赤ちゃんや小さな子どもを連れた人を電車のなかで見かけると、彼らはひどく恐縮して、身を小さくして、そのひとときをやり過ごそうとしているように見えます。こころなしか、子どもたちも緊張して、顔をこわばらせたり、逆に不安そうにぐずったりしています。この国は、いつからこんなに子どもを育てにくいところになったのだろうと思います。「小さい子どもがそこにいることを許し合う」ことは、発展する社会として当たり前のことだと思うのですが。

最近、若い人たちと話をしていると、「親になる自信がないんです」という声を耳にするようになりました。改正児童福祉法(虐待防止法)の施行(親による体罰の禁止)を前にして、「子育て」というものを、とてもハードルの高い技術であるように感じてしまっているのだそうです。違法を恐れて罰することをせずに自分が子どもを育てた結果、もしかしたら全く言うことを聞かないような、やりたい放題の子どもになってしまうかもしれない、それが怖くて親になる自信がないのだと、彼らは言うのです。

そんな風に不安を訴えるのは、体罰を受けて育ったという若者たちが多いようです。「ある程度の体罰はしかたがない」という考え方を親御さんから受け継ぎ、あたりまえのこととして肯定的にとらえている若者たち、そんな彼らに、「さあ、4月から法律で体罰は禁止になりますよ。あなたたちからは、体罰に頼らない子育てをしなければなりません」と言われても、こころの準備が追いつかず、子育てそのものに対して不安を抱くようになっているらしいのです。

日本では、児童虐待防止対策といえば、一番に思いつくのは、「虐待の早期発見と親からの子どもの隔離」ですが、アメリカなどでは、かなり前からその段階を通り過ぎ、今はむしろ、妊娠期からの支援、つまり妊婦やそのパートナーへの支援が、児童虐待防止の主なテーマになっているそうです。

日本でも、そろそろ若い人たちに対して「体罰に頼らないで子育てをするということ」について、知識として具体的に伝えていく必要があるのではないでしょうか。妊婦さんへ保健師さんが支援するのはもちろんのこと、近い将来、祖父母になる人たちにも、おじさんおばさんになる人にも、社会のすべての人たちに対して「市民全体で子育ての常識を変えるのだ」というくらいのつもりで。

いつも思うのは、こういう風に世の中の考え方を更新しなくてはならないとき、「昔の人のいうことをきくべき」という基本の考え方を、いかに上手に手放すか、という点です。

体罰を受けて育った若者が、体罰をしないで子育てをしようとするならば、当然のことながら「親世代のしていたこととは違うやりかたを探す」という必要がありましょう。「お母さん、お父さん、これからは、あなたたちとは違う時代がはじまるんだから、お母さんとはちがった方法で子育てをさせてもらうね」というつもりで、「親とは違う親になる」という覚悟を決めて、なんとなくではなく、自覚的に、主体的に、子育てのイメージトレーニングを、子どもを持つ前からしてもらう時代が来ていることを感じます。それが、改正児童虐待防止法の施行を迎えるいま、必要とされているのではないかと思います。

私自身は、体罰を受けて育った人間ですが、体罰をしないで子育てをしたいと強く願った人間でもありました。「自分の親とはちがう子育てをしたい」と強く願い、外の情報に目を向けました。

乳児期に赤ちゃんから「この人は自分を守ってくれる人」と思ってもらえる人になるよう、できるかぎり大切にすること、そして、歩きはじめる前の、つかまり立ちの時期に、触っては危ないものに触りそうな瞬間をとらえて「これにさわってはダメ!」というメッセージ、つまり「この世にはルールというものがあるのだ」という事実・・・を本気の顔で、本気の声で、真剣に伝えること。

そうすることで、体罰を使わなくても、子育てすることができるということを、私は自分の親以外の情報で知りました。(いまの人なら、もっともっと高度な情報が得られることでしょう。)

本気のメッセージは、つまりは「あなたのことが大切なのだ」「あなたに幸せでいてほしいのだ」というのと同義のメッセージだと思います。その限界、そのルールを知ることが、子どもの幸せに結びつくのですから。

「あなたに幸せになってほしい」という気持ちが、親としての本音なのだと思います。だとすれば、子どもたちが「幸せ」という言葉を理解するようになったら、率直に「幸せになってほしい」と伝えることもひとつの方法です。

「勉強しなさい」ではなく、「もっと頑張りなさい」でもなく、「あなたには幸せになってほしい」という、親の本音を伝えてみてはどうでしょうか。

子どもはきっと、親の本質的な願いを、きっとまっすぐ受け止めてくれるでしょう。そして、勇気を得て、自分で一生懸命考えて、幸せのための一歩を踏み出してくれるのではないでしょうか。子ども自身が「幸せになろう!」と思ってくれれば、自分自身をダメにするようなことはしないでいてくれると私は信じます。

もちろん、子どもたちの生きる時代は、私たちとはまた、ちがう世界になっていきます。思えば、もう21世紀なのです。あの日思い描いた未来に私たちは立っているのです。いま、目の前にいるのは、マーティ・マックフライ・ジュニアと同世代なのです。

もはや、私たちの常識も、子どもたちの時代には通用しないのでしょう。だから、子どものかわりに親が幸せの方法を考えてあげようとか、親の思い通りに我が子をコントロールしようとしても、それはもう、不可能なのでしょう。私たちにできることは、子どもの命を守ること、幸せになってと祈ること、その単純さは、古来の普遍なのかもしれないけれど。

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