その土曜日の午後は、真冬への贈り物のようなあかるいお天気でした。
友人であり、恩人でもある「はるさん」から誘われていた「みけめぐり」の会に、一度、顔を出してみようと思い、ひとりで山の中の集会所にクルマででかけました。
集会所の扉をあけると、中には20人から30人くらいの老若男女がいて、小さな子ども達がわあわあと遊びながら裸足で走り回り、年配の人や、若い人が、隔てなく優しい笑顔で語り合っています。薪ストーブが気持ちよく炎をあげ、部屋のあちこちでお店開きがしてあって、若い男の人がコーヒーをを淹れたり、小学生の男の子がワッフルやクレープを焼いたりしています。これが、はるさんたちが始めた「みけめぐり市」の風景でした。
はるさんが私を見つけて人々に紹介すると、みんなは笑顔で迎えてくれて「みけめぐり」の説明をしてくれる人に、私を案内しました。
その人は、私に「みけ通帳」と書いた手帳を渡してこう言いました。「ここでは、人に何か仕事をしてあげたら、『みけ』がもらえるんですよ。例えば、外で子ども達とキャッチボールしてるお兄さんね、『キャッチボール屋さん』で200みけ、とか、『本の読み聞かせ屋さん』で300みけとかね。で、あそこで、ワッフル屋さんしてる子みたいに、子どもでも自分ができるお仕事で、何でも仕事をすることで、みけを稼ぐことができる、まあ言ってみれば地域通貨ですね。でもね、ここでは、『みけの借金』は、決して悪いことではないんですよ。『マイナスみけが多い』と言うことは、それだけたくさんの人の『仕事』をひきだした人ですから、功労者なんですよ。」「『円』ではなくて、『みけ』を通して、『仕事と仕事の交換』をしていけば、おたがいさまな人間関係が生まれるでしょう。最終的には、みけもいらないくらいの『お互い様』になれば、それはそれでいいんですよ。」そう言って彼は、さっそく私から『みけの説明 200みけ』をゲットしたのでした。
その空気には、まるで学生のころの文化祭や学園祭の模擬店を思わせるようなワクワク感がありました。私は、すぐに小学生の焼いてくれるおやつをいただいたり、お買い物をしました。はるさんは、台湾で買ってきたお茶一式で、丁寧に『台湾茶会』をしてくれました。「一煎目、二煎目、ひとつひとつ味と香りが変わっていくでしょう?”君はよっぽどおままごとをさせてもらえなかったんだね”って、からかわれるんだけどね」と笑いながら淹れてくれる、そんなはるさんのお茶席の時間は、ゆったりと流れ、あたたかみのあるものでした。一緒にお茶を飲みながら語り合う若い人たちは、この村で暮らすこと、子育てすることに、心から安心したような表情をしていました。
この辺り一帯は、のどかな里山の風景の中に、都会から移住した若い人たちが、地元の人と調和して暮らしている、とても不思議な村です。
地元の人自身が、実はすでに何十年か前の移住者または開拓者であることも多く「よそ者」をわけへだてするような空気がない、ということが幸いしてか、若い世代と上の世代が「自然を愛する」という共通項で、ゆるく結びつき、やさしく助け合う、独特の風土をもっています。
若い世代の移住者たちは、自然の中でのびのびと子育てをしながら、こだわりのカフェや古民家レストランを経営し、芸術活動などを通して、この村を活性化しているし、上の世代の人々は、そんな彼らに、いくらでも、空き家や作物や知恵や手助けを授ける気持ちのひろさをもっているようです。
はるさんが、パートナーと共にこの辺りの古民家に移住して以来、音楽祭や映画祭などの催し物に何度か招いてくれたため、私はこの村のことを、心のどこかでもう一つの故郷のように感じています。この村にいると、なぜかほっとし、心惹かれて、また行きたくなるのです。幼いころに好きだった「父の山の家」に、地形的にもそっくりだということも関係しているかもしれません。
部屋の一角で、数人の女性たちが集まって、新しい仕事を立ち上げる相談を始めていました。その声を耳の端で聴きながら、別の日の「読書会のおさそい」をする人のお話を聴いてもいました。ここでは、老人も子どもも若者も、すべての人が「自分の仕事」を持ち「自分の価値」を知っているようでした。いつのまにか私も、「この次来るときは、何をして『みけ稼ぎ』をしようかな」と考えはじめていたのでした。
私のこころに、10代の頃、義兄の勤め先の離島に遊びに行った時の記憶が、唐突に蘇りました。その離島には警察署がないから、中学生が軽トラを運転していました。その離島にはお店も自動販売機もなくて、みんなお金ではなく物々交換でやりとりしていました。数人の若者が連れだって出かけていくときに「○○ちゃんの屋根の修理に行くんじゃ」と言い合っていました。「屋根の修理代」という賃金は発生せず「困ったときはお互い様」という「仕事のやりとり」が、その島にはありました。私は、その島で、生まれて初めてのカルチャーショックを受けましたが、自分の価値観を裏返されるようなその体験に、どこかすがすがしい、こみあげてくるような面白味を感じたのものでした。
「ちょっと『円』に対抗してみたくてね」そう言ってはるさんは笑います。彼女は、臨床心理士として、たくさんの人の悩みに向き合い、こころの問題を考え尽くした末に、人と人とのつながりや、仕事のあたたかみの原点に発想が還っていったようなのです。
もしも、この山里のなかで、「仕事」と「仕事」がやりとりされるのなら、景気の好不況に左右される貨幣経済からも、グローバリズムからも全く影響を受けずに、人々は生きることができるのです。格差社会とは無関係の、ひとりひとりが輝く村が実現していることに、私は感動すら覚えました。
桃源郷のような村です。ときどきふと、あの村は現実なのかな、2度と行けない場所だったりして、と疑いたくなるような、夢のような時間が、そこに流れていました。