今年の暑さは、伝説の「1994年の夏」を超える、特別なものになるのでしょう。この危険な暑さの中で、子どもの命をまもりながら過ごす、多くの親御さんたちを、応援します。
今日は8月16日、私にとっては大切な日です。2000年の夏、幼い息子を、炎天下に放置してしまった『ごめんね記念日』だからです。
ゆうべ、電話で息子に「明日は『記念日』だね。ごめんね。」と謝ると、去年と同じようにくすっと笑ってくれました。
息子は仕事の関係で、ひとり海外で暮らしています。遠くに住む家族に会えないコロナの日々が続きます。SNSで繋がる世界中の人の気持ちがわかるようになり、最近私もインスタグラムを始めました。いつか本当に誰にも会えない日々が訪れても、自分が寂しくならないように、そして、海外でひとり暮らす息子にも、たまに懐かしんでもらえるように。
今日のような日は、あの日の自分の過失を思います。夏の朝、開いているつもりの学童保育の入り口に7歳の息子を置いたまま、仕事に向かいました。休み明けの仕事に追われ、学童保育が、まだ休み中であることを失念してしまったのでした。こんな私は、時々耳にする「過失で子どもを放置してしまった」親のニュースを、他人事と思うことができません。
あの日、いつまで待っていても学童保育は開かないことに気づき、待ち続けることをやめ、母の仕事場に向かって歩き始めたのは、彼自身の判断でした。子どもの命をまもるのは、子ども自身の力にほかなりません。
親として「子どもを守る」なんてことを、あれから私には言えなくなりました。
ただ、彼が彼の判断で、その後の人生も、自分の命を守り、生き抜いてくれるように、と祈ることしか、私にはできないと、気付いたのです。
思えば、1994年の酷暑の夏もそうでした。一歳の誕生日を迎えたばかりの息子は、私の作る離乳食では、うまく成長できないほどの「夏痩せ」をしていました。
おむつをつけ、汗をかき、顔を真っ赤にして、水ばかり飲んでいる息子を見ながら、私は、「子どもの命をまもる」ということの難しさにうちのめされていました。「何も成し遂げなくていい。ただ存在してくれるだけでいいから。」と願いましたが、それすら難しく思えるほど、酷暑の夏は若い親子に厳しいものでした。
あの夏、8月の半ばに、一歳児をチャイルドシートにくくりつけ、初めてのドライブに出たのは、久住高原でした。登山口の駐車場に降りた時、あまりの空気の涼しさに驚いたのを憶えています。
小さな足に、初めての柔らかい靴を履いて、トコトコと どこまでも歩き出す一歳児は、酷暑のアパートでの姿とは別人のような笑顔でした。母がタッパに入れて持ってきた離乳食セットを払いのけ、父親の食べていたカツ丼を欲しがりました。「離乳できてないのに、食べさせていいの?どうしよう?」と、とまどう両親を横に、彼は父親のカツ丼を、あっというまに食べてしまったのでした。
その時の、驚きと、安堵の入り混じった気持ちを、今も忘れることはできません。「離乳食なんかどうでもいい。食べてくれるなら。」とほっとし、胸にこみあげる痛みを感じて初めて、自分がいかに不安に思っていたかを知ったのでした。
あの日もまた 子どもの命を守ったのは、両親の判断ではなく、一歳児本人の、強い意志だったのでした。
成長する過程で、息子が大きな病気や怪我を乗り越えるたびに、「生き抜いてくれるなら何でもいい。ただ生きてほしい。」と、心から願いました。その思いは今も、たぶんこれからも同じだと思います。
親としての私が、子どもに望むのは「ただ『在る』ということ。」だけなのです。なにかを『する』こと、・・・例えば、若い時に「学ぶ」ことや「鍛える」ことや「働く」こと・・・などの『する』ことは、「ただ『在る』ための『手段』」に過ぎません。
ただただ『在る』ことだけをまっとうして欲しい、そのために、どんな『手段』を選んだとしても、本人の判断を大切にしようと思いました。
もっとも、私のような迂闊な母親が、子どもの判断に介入できるはずはないのですが。
ただ、これからを生き抜く若者は、もう親世代の指示や支配を、少し離れた方が良いような気がします。コロナ以前の時代の過去の常識が、これほど大きく変化し続ける時代に、通用するとは思えないからです。