そこに私も

あの朝、体に流れ込んできたあの感覚は、たしかに初めてのものでした。

そのくせ、「あっ そうだった!」と、まるで忘れていた何かを思いだしたような驚きをも感じたのでした。

よく晴れた高原のコテージで、澄んだ空気の中、深い眠りから醒めた私は、ひとり部屋を抜け出し、朝の露天風呂に入りました。そのあと家族とともに、レストランへ移動し、朝食のテーブルに着きました。そして、最初のひとくちに選んだのが、今朝牧場から届いたばかりの、真っ白い牛乳でした。

コクの深い、新鮮なミルクが、自分の喉を通って体に入った瞬間でした。そのミルクを与えてくれた「牛」の存在を思い出し、その母牛がその命の一部を与えてくれようとする穏やかな「意識」のようなものが、一緒に私の体に流れ込んできたのです。

それは一刹那に通り過ぎ「え?」と思った次の瞬間には、もうそれは過去のものとなっていました。

気のせいかもしれない、とも思いました。

けれど確かに、私は、その瞬間に気づいてしまったのです。思いだしたのです。長いこと忘れていた、この世の真実のようなものに。

『九州の真ん中』にある、高原のコテージに、今年も泊まりに行きました。見渡す限りの緑の草原の道を、クルマはゆるく上り続けます。青い空が、白い雲が、くっきりと見えます。高地の気圧に体を馴染ませるために何度も何度も耳抜きをします。標高が100メートル高くなると、気温が一度下がるのだから、うだるような暑さから一時逃げ出すための「山」への旅は、私には夏の最高のイベントです。

子育ての季節は終わり、子ども達は二人とも大人になりましたが、それぞれの社会生活を小休止して集まりました。日常を離れ、ただ「無」になれる時間を求める気持ちはみんな同じです。子ども達が運転を交替してくれたり、遠慮なくビールで乾杯したり、むかし子育てをしながら夢見ていた未来を抱きしめながら、大切な時間を過ごします。

今回の旅で私が自分に言い聞かせていたのは「考えることを止め、ただ感じること」でした。

刻々と色を変える山々と空、草原を渡る風、キャンパーたちの熾す炭火の匂い、はしゃぐ子ども達のいきいきとした声、飲み交わすビールの味、露天風呂の感触、見上げる星空にかかる天の川。

空や景色に目をあずけ、耳をすまし、感覚を研ぎ澄ませて、この素晴らしい山の空気を思いっきり吸い込みたい。街には街の面白さがあるように、山には山の素晴らしさがあるから、この世界の、自然の、美しい贈り物を、両手いっぱい広げて受け取りたいのです。そんな旅の途中でも、ふと記憶の中に、仕事のいざこざを思いだしたり、過去のことや未来の予定について思いだす瞬間もありますが、そんな思考たちには、なるべくこちらからお願いして、頭から出て行ってもらいます。情報や記憶や不安に頭を占領されるのは、この美しい休日がもったいないからです。

そんな夏山の朝、私の体が受け止めた、あの穏やかな「牛」の意識は、その次の瞬間から、私の眼にうつる世界の見え方を、じわじわと変えていったのです。

このあたりの牧場では、ガンジー牛と言われる赤毛の牛がいます。脂質が多くコクの深い、クリームのような牛乳を与えてくれる牛たちです。幼い頃、白と黒の模様のホルスタインの生乳を得るために農家へ毎日通った私なのに、最近はスーパーで紙パック牛乳を買う生活に慣れ過ぎて、すっかり忘れきっていました。

「そこに牛がいたからこそ、私はこのミルクを飲めているんだ」という事実を。

今回の旅で私は、トウモロコシ畑から採れたばかりの焼トウモロコシを食べ、牧場の真ん中にある店で牛の焼肉を味わい、渓谷の清流で涼みながら川魚の山女を食べました。葡萄畑のわきのワイナリーでワインを飲みました。すべては、この大地からいただく命を、その場で味わう瞬間でした。

ふと戻ってきた悟りの感覚、それは、自分の足元から広がる大地で草を食む、牛たちのいのちや、植物や、昆虫を含めたすべての命が、本当はリンクしていて、そして、その中に実は『私』も含まれていたのだ、という、シンプルな事実でした。

いままでに、何度も、例えば「ライオンキング」で謳われる「サークル オブ ライフ」のように、頭では充分理解できていたはずの「命の連鎖」という真実を、これほどリアルに感じたのはこれが初めてです。

世界はこうしてつながっていて、実はそこに自分自身も含まれているということ、虫のように短い命も、牛の様に私たちに捕食される命も、巡る連鎖の中にあり、私たちもまた、限りある命を燃やし尽くして、次の命のために朽ちていく存在だ と言うことにも、気づかされました。

旅を終え、こうして机に向かっても、あの朝、私の中に流れて来た、優しい牛の思いは、この体に残っているようです。

この夏、「考えることを止め、ただ感じること」をめざした私への、あれは大自然からの小さな 「おすそわけ」だったのかもしれません。

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