旅する理由

2022年は、旅の日常が少しずつ戻ってきた年だったと思います。感染のリスクを頭の隅におきながらも、家の中に閉じこもることなく、そろそろと動き出し、小さな旅に再び踏みだした年でした。移動中の交通機関の中では誰もがマスクをつけたまま、行儀よく沈黙しています。あらゆる場所の入り口で検温をし、手指消毒をすることにもすっかり慣れました。制限を受けた旅であっても、2年ぶりに許された今年の旅には、以前とはまったくちがう胸のふるえを感じました。

パンデミックによって、私たちの日常は一変しました。新しい日常スタイルを受け入れながら、移動を制限され続けた2年間、会うことの許されない家族や友人とスマホの画面で向き合いながら私たちは耐えました。

そんなとき、私たちはたがいに「コロナが明けたらどこに行きたい?」とたずね合い、「ああ いいねぇ 行きたいねぇ」と相手の答えを褒め合うことで、妄想の旅をふくらませ再び旅する日を信じて励まし合いました。そうしてじっと耐えながら、自分たちがどれほど旅を渇望しているかを思い知ったものでした。

旅とは、人々が場所から場所へ移動する行為です。ただ、重い荷物を持って自分を運び、また荷物を持って帰ってくる。それだけのためにお金と時間を使うこの行為を「無駄」と考える人もいるかもしれません。

それでも、私たち人類は、太古の昔から、旅をすることをやめません。昔は歩いて、船に乗って、馬車にのって、そして時が流れて、新幹線や飛行機に乗る時代になり、やがてパンデミックの時代を経験しても、旅が私たちの本能にこれほど深く刻まれていたことを思い知りながら、私たちは旅することをやめません。

かつて人々が旅する目的は、宗教上の巡礼や参拝であったり、避暑や湯治であったり、冠婚葬祭であったり、名勝の観光であったりしました。

そんな明確な目的がなくても、ただただ旅に出たくなることがあります。駅のコンコースの雑踏や、空港の搭乗口で、旅行者たちを眺めるときの高揚感が、たまならく好きなのです。

旅先の初めての場所を、マップを頼りに歩き回る時間の、その非日常の空間から、遠い自分の町の自分の日常をふと眺めるとき、その卑小さに驚きます。

あんな遠い小さな町の、小さな家や職場で、私は「普段」を生きている。なんて狭い人間関係の 些細なゴタゴタに巻き込まれては、毎日みみっちく悩んできたことだろう、と。

飛んできた空の広さを思い、旅先で青い海の水平線を見つめるとき、私は自分の立っている地球の大きさを知るのです。そして、小さな世界に閉じ込められ、謎のルールに縛られて、同調圧力にしたがって生きてきたことに気づくのです。

ああ小さい。私は小さい。私の周りのいざこざや人間関係たちも、愛すべきほどに小さかったんだ。世界のフィールドは、本当はもっともっと大きいのに。

まるで鳥のように、上空から豆粒の人々をながめるような「視点」を与えられ、凝り固まった近視眼がすうっとほどけていくことで、今まで自分の「脳」がだまされていたことに気づくのです。昔から大人たちの言っていた「視野が広がる」という瞬間が、旅によってもたらされるのです。

一度得られた「視点」は、旅が終わってもずっと体の中に残ります。ゴタゴタした日常に戻ってもそれは消えません。ひとまわり広がった「視野」で見まわす日常は、いままでとは全く違った景色となり、まるでゲームの中で与えられたタスクのような姿で、ガリバーと化した私を迎えてくれるのです。

旅の効用は、旅した本人にしかわかりません。あるいは本人にも自覚できていないかもしれません。けれどそれは決して「無駄」ではなく、実は「一生モノの宝となる視点」を体の真ん中に植え込む、素晴らしい投資なのです。

昔の人は「かわいい子には旅をさせろ」と言いました。旅の効用を我が子に与える鷹揚さが、親たちにあったのでしょう。

このごろは、様々な理由をつけて、わが子を手もとから離したがらない親御さんが増えたと聞きます。かわいい子に旅をさせたら、子どもさんがその「視点」を手に入れて、より「広い視野」でご自身親世代を凌駕してしまうことを、本能的に恐れているのかもしれませんね。

けれど、パンデミックで心が圧迫される厳しい時代です。小さな日常に子どもさんを閉じ込めるのは、むしろリスクが大きいような気がします。

つらい思いをしている子どもさんにこそ 勇気を出して旅に連れ出し、鳥の視点を授けてみませんか。

旅先で得た世界の大きさと優しさが、彼らにガリバーのサイズ感を与え、日常のハードルを軽く超える力となるかも知れません。

 

 

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