「あの子たちのことは よくわからない」。
思春期の、やる気のない、ふてくされた女の子を見たときに、私たち大人は、つい、そう思ってしまいます。「あの子たち」の反抗や攻撃的な言葉に、プライドを傷つけられるのが怖くて、「わからない」という一言で、考えることから逃げ、関係を遮断してしまうことが、あります。
周りの大人から、虐待、とくに性的虐待を受けた子どもは混乱し、周りの大人に助けを求めますが、相談された大人、たとえば母親が、悲しい顔をして、「よその人に言ってはだめよ」と、事実をなかったことのように扱おうとしたり、「あなたがしっかりしないから」とか「あなたがその人についていったから」などと、いかにも本人に非があるかのような言い方をして、すべてに蓋をしようとする場合が多いようです。被害を受けた子どもは、護ってくれると信じた人から、「人としての差別」という「二次被害」のひとつめを受けることになるのです。「もう私は、ママにとって、誇らしい子じゃなくなったんだ」という悲しみに突き落とされるかもしれません。
子どもから、性的被害を相談されたとき、「悪いのはあなたじゃない」「あなたに非はない」「悪いことをした人の方が悪くて、あなたはまったく悪くない」という、あたりまえの一言で、傷ついた子どもの心を包み、「一緒に怒ろう」「一緒に生きよう」という伴走者になることを選ぶ大人は、この社会の中で、どのくらいいるのでしょうか。
事実に蓋をすることで、大人から遠ざけられた子どもの心は、どこへ向かうのでしょう。かれらはそんな自分自身を「価値のない人間」と思い込み、誇りや、やる気をなくし、自傷行為をしてしまったり、人を寄せ付けない言葉を発したり、時には「死にたい」という言葉を発してしまったりすることもあります。もちろん、何事も感じていないかのように、明るく気丈に人生を生きることもあります。ときには、大人に不信感を持ち、反抗的な態度をとることもあるでしょう。
そんな、子ども達が、いまの社会に確実にいる、という気づきを与えてくれた人がいました。
それが、一般社団法人「Colabo」代表であり、「難民高校生」や「女子高生の裏社会」の著者でもある、仁藤夢乃さんです。
先日、彼女のお話を聴く機会があり、この国の「性の商品化」の現実と、その中に引きずり込まれてしまった少女達の、傷ついた心に寄り添う日々の活動を知りました。家庭や地域や学校からはじきだされて、街をさまよう少女達が、「JKビジネス」という名の性的搾取の目的で近づく大人(=性産業業者)に誘われ、連れていかれるという危険から救うため、仁藤夢乃さんたちColaboのメンバーは、街に出て少女達に声をかけ、食べ物や着るものや、眠る場所を用意し、話を聴き、護る活動をしています。先日の成人式では、二十歳を迎えた女の子たちに、振袖を着つけた様子もツイッターで見ることができます。仁藤さん達が用意した「ピンクのバスカフェ」に、避難した少女達は、おそらく生まれて初めて、大人から、「こころをひらいて、無心に話を聴いてもらえる」という体験をするのではないでしょうか。
「あなたのことをわかりたい」という大人の姿勢が、どんなに少女達のこころを温め、エネルギーを復活させる源になるかということについて、私は思うのです。その日を境に、その子の傷ついたこころ、閉ざされた脳の働きにエネルギーが巡り始め、少女達は、そこからもう一度生きることを始めるのだと思います。仁藤さんは、そんな彼女達の、「人生の伴走者」として、数えきれないほどの命に光を灯し続けているのです。夢乃さんの姿に「本当の大人とはなにか」を考えさせられた気がします。
山崎朋子さんによって書かれたノンフィクション「サンダカン八番娼館」を初めて読んだときの衝撃を、今も覚えています。「性的搾取」という産業は、人類の発祥の昔から、脈々と繰り返されているのですが、ある時期は、国家を富ませる程の経済活動でもあったという事実や、「女衒」(ぜげん)という人身売買の職業をもつ人々は、人を人として扱わず、人権感覚を麻痺させ、本当のことを隠しながら少女を誘い、買い取り、海外に連れて言って高く売るという犯罪を繰り返していました。それは、かたちをかえ、都会の街角で、SNS上で現代も繰り返されているのです。いつの時代も、「本当のことを何も知らされず」プロの大人に連れていかれた少女たちがいて、性的搾取は行われます。それなのに、「売ったのは自分だろ?」という自己責任論によって、社会から突き放されてしまう人々が、あとを絶たないことや、それを性的搾取の「被害者たち」と呼ばず、「そういう子たち」と呼び、自分たちには何の関係もないとする大人たちの冷たさについて、今回あらためて考える機会を与えられました。
「あの子たちのことは よくわからない」という一言は、本当は、「わかるのが怖い」「わかりたくない」という大人の怠慢と卑怯の言葉なのかもしれません。それ以上関わらない、考えることもしない大人でいつづけることは、彼らを、地域社会や学校からはじき出し、彼らの居場所を奪い、若者を性的搾取という経済活動の資源にしようとする大人の手に渡す、「間接的な加害者になること」でもあることに、ようやく気づかされたのです。
夢乃さんの活動、発信が、社会の多くの人、特に性的業者からの「攻撃対象」になっていることも知りました。「人を人として、尊重してほしい」という、ごく当たり前のメッセージを仁藤さんが発することが、仁藤さんへのバッシングや炎上や殺人予告につながる、それが、残念ながら今の社会の現実なのでしょう。なにしろ「サンダカン八番娼館」の昔から、いやもっと前から、「時には国家を富ませる程の」ものすごい経済効果をもたらすもの、それが性的搾取という産業なのだとするならば、多くの少女たちの人生を犠牲にしても、その性を商品化することは、「多数派の論理」にかなうことなのでしょう。残酷で身勝手な、非道な社会、その現実に目を向けるとき、私たちは時に絶望的な気持ちになることさえあります。
それでも、「私は仁藤夢乃さんの側にたちます」という人は、確実に増え続けています。彼女のメッセージが、人としてのこころの芯のところに響くからなのでしょう。
大人として、この非道な社会の現実に向き合い、何かひとつでもできることをすることで、絶望は希望にかわり、自分やこの世が、少し好きになれる気がするのです。
「あなたのことを わかりたい」そう思う大人のひとりになりたいと思います。そんな一歩を踏み出させてくれた、そんな、仁藤夢乃さんとの出会いでした。