「暴力はあってはならない。」「殺人は、人として許されない、最も卑劣な犯罪です。」安倍元首相の死後、連日繰り返される「殺人」の罪深さ、そんなに繰り返さなくても、みんな知っています。私たちは、ものごころついてから何よりも早く「人を殺すこと」が最大の罪であることを教えられてきましたから。
その一方で、日々国と国との戦争の映像が流され続け、軍備の必要性が報じられています。この光景は何なのでしょう。互いに互いの責任を問う戦争の、真実はよくわかりません。わかっているのは、元首相の死と同じ瞬間にも、そして今でも、世界のどこかで幾多の命が、とめどもなく奪われ続けているという事実です。
平和な暮らしを追われ、避難先で殺された民間人の死を悼みながら、私はその殺戮を実行した兵士たちの「人を殺してしまった」という記憶に蝕まれる今後の人生について考えます。その殺戮が、永い悪夢のはじまりになることを。
世界中の多くの国々では、国の為に兵役に就くことが義務づけられ、兵役を逃れようとすれば「犯罪者」として裁かれます。だから、どんなに世界中の友達と深くつながっている人でも、ひとたびマイクを向けられれば「もちろん自分の国の為に戦います」と公言するのでしょう。
彼らは、口が裂けても言いません。私が夢想する、こんなひとことを。
「僕らは兵役には行きません。人を殺す練習をしたくありません。誰にも銃を向けたくありません。僕らに国境はありません。世界中の人々が友人ですから。」
『兵役拒否』と忌避され、大人達から恐れられてきたこのひとことを 最初の一人がつぶやいてくれないものでしようか。ありえない夢でしょうか。
最近私は、この世界を不思議な目で見つめています。「はだかの王様」のパレードのようです。この世界は、ちょっと変ではないですか?
「殺してはいけない」と教え込まれながら、ときに「殺さなければならない」と担ぎ出される彼ら、もやもやとした疑問や、社会の矛盾を、言葉にすらできない若者たちを、私は悼みます。
国と国との諍いは、歴史を遡る深い溝となっていて、修復が難しいのはわかります。けれど国からの命令を受け、重い銃を持たされて戦うのは、いつの時代も、まだ生まれて20年も経たず、歴史的責任もない若者です。
すきとおるほど新しい、地球に生まれた生命体に過ぎません。
そんな彼らが「人を殺さなければならない」自分の役目に、本当に納得できているのでしょうか?
権力を持つ大人の作り出す同調圧力に抗うすべを知らず、マインドをコントロールされて引き金をひく、その先にある命は、彼らにとって本当に「殺すべき憎い敵」だと信じきれるのでしょうか。
この新しい世紀に、若者たちはもう、世界を縦横無尽につながりあっているのです。殺戮の対象は、もしかしたら、すでにオンラインゲームの世界大会や、SNSでつながり合った世界の仲間同士かもしれません。
無理やり引き金を引かされた彼らの、その先の人生に傷を残す殺戮を強いる程の正義が、どの戦争にあるのでしょうか。
私にも、愛する子どもがいるけれど「どうか人を殺さないで」と、祈りながら育ててきました。人を殺さず、殺されないで、穏やかでささやかな人生をまっとうしてくれることを、ただただ祈りたいのです。
「だれも殺したくないです!」愛されてまっすぐ育った若者が、そう宣言しても許される未来を、私は待っています。人を殺すということが、義務でも仕事でもなくなるまともな世界を、願うのです。