「怒らない」と「怒る」の間。

「怒る」ことは、とても疲れるから、そんな感情そのものを手放したい、と先日つぶやきました。でも、考えた末、やっぱり「怒り」を手放すことはできません。

私の中にある「怒り」に「そこにいたんだね。無視して悪かったね。捨てたりしないよ。そこにいていいよ」と、今日の私は呼びかけます。

子どもの頃、両親からたくさん怒られました。私は、自分のことを、とても価値の低い人間だと思い込んでいましたから、すべてを「私がダメだから」と思うことで何もかも納得していました。

だから、”私のくせに”、親に対して「怒り」を表すことなんて、思いもよらないことでした。両親から何を言われても何をされても、ただただ何も感じてないかのように平気そうに、寛容に受け入れることで、両親と良好な関係を築こうとしていました。もちろん「怒り」なんて感じる資格すら自分に認めていませんでした。姉たちが親に対してふくれっ面を見せたり、声をあらげたり、ぷいっと立ち去る姿を見せることさえ、「信じられない、私にはできない」と思っていました。「怒る」という感情を知らない私は、ただただへらへらと生きていました。

今でも誰かに「え? まさか、怒ってんの?」と聞かれると「怒ってないよ・・」としか答えることの出来ない私がいて、でもそんなとき、心に呟く言葉があります。「まさか怒ってんの?って聞くあなたは、怒るわけないよなと思ってるんだよね?『お前のくせに怒るなんて、ないよな』って思ってるの?あなたはそうやって、私を怒らない人間と認定しているのかもしれないけれど、本当は私の中にも怒りはあるんだよ。」なんてことを思います。思っても、その怒りを上手に示すことができない。子どもの頃から「怒らない子が良い子、育てやすい子が良い子」と言い聞かせられ、その期待に応えたかったゆがみが、今も消えないのかもしれません。そのくせ、心の中はぐちゃぐちゃになっているのに。

先日、ある女性が、子どものころ、お父さんから受けた暴力について 話してくれました。「父は、成長した私に、もう手をあげることはしません。ただ、『昔はよく手をあげていたなあ』と、思い出話みたいに笑いながら語るんです。」その彼女の言葉を きいている私のこころに、急に猛烈な「怒り」がこみあげてきました、自分でも驚くほどの「怒り」でした。

彼女のお父さんは、最近毎日のようにテレビで話題になっている、父から娘への暴力について、おそらく自分でも忸怩たる思いがあるのでしょう。かつて自分も娘に暴力を振っていた自覚を持ち、それを今、笑いながら語ることで、娘の顔色を伺い「まさか怒っていないよな」と、何度も娘に確認するのでしょう。娘の方は、躾という抑圧を受けているから、お父さんに怒りを向けることはありません。困った顔で笑うだけです。

その話を聴きながら、私は、ふと思いいたったのです。「怒ることを許されなかった」私と、私に怒ることを許さなかった私の父とのありように。

私の父もまた「あの時は・・」とかつての自分の暴力や抑圧を、笑い話としてよく語っていました。私はそれに対して、言いようのない気持ちを抱きながらも、薄笑いで応じていたのでした。

いま、こうして他の親子のおかげで、客観的に、父と娘のやりとりを眺めてみると、娘にすまないことをしておきながら「怒ってないよな」と繰り返すことしかできない 父親の矮小さと、それを不快に思いながら、正面から「怒ってるよ!」と返せない娘のなさけなさに、心底腹が立ってきます。

怒ってるよ!

私は心から怒っている!あなたが私にしたこと、ずっとものすごく怒ってるよ!

「怒ってないよな」 じゃなくて、「ごめん」でしょう?人生で一回くらい、真面目に謝りなさいよ!

本当はそう伝えたい。一番伝えたいことは、一番伝えるのが難しい。人は、いつも本当のきもちを伝えられずに、ぐずぐず抱えながら進んでいくもののようです。情けないけれど、それが私です。

なぜかというと、私の人生で、一度だけ父に対して、本気で「怒り」をぶつけた日、私は父から関係を閉ざされ、二度と話のできない関係になったからです。そう、本当に、それが一度きりでした。

船を下りるために、私がしたことは、「私の中にも怒りはある」ということを、たった一度、両親に伝えただけでした。両親は「娘にも怒りはある」という真実を、受け止めることのできない人たちだったのでした。

私の中に、ながいこと封じ込められてきた「怒り」は、手渡す相手を失い、こころの水底で、そのまま埋められています。ときどき、暴れようとします。

凪いだ海のような、澄み切った水面のような、そんな心になりたいと、ずっと願って生きてきました。心が晴れ晴れとする日が来るなら、それが最高の幸せだと私は思ってきました。

でも、それはこころにある「怒り」を無視し、追い出すことではなく、こころの水底においてある「怒り」を抱きしめ、そこにあることを許し、死ぬまで一緒に歩いていくことなのかもしれません。

 

 

 

 

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