九州の内陸部のその町に、私が生まれたのは、その頃の父の勤務地が、その町にあったからでした。
両親にとっては、長い人生のうちの、一時期住んだだけの町かも知れませんが、私にとっては、人生の始まりの地なのでした。
春はレンゲ畑、秋には刈干しの稲が広がる田んぼとそれらに水をはこぶ小川が、私たちの遊び場でした。私は、二人の姉と近所の子ども達と一緒に、いつも大勢で、群れて遊んでいました。
缶けり、ゴムとび、はないちもんめ、じんとり、かくれんぼ、探検ごっこ、基地ごっこ、遊ぶ子どもたちの中で、もっとも幼かった私は、仲間はずれにされないように、必死で年上の子どものあとをついてまわったのを覚えています。
山間部の気候は厳しい冬を呼び、毎年雪景色が広がりました。雪の上を歩くと、きしむ長靴から、足跡が生まれたこと、手袋でさわると、白い雪で手袋がやがて固まったこと、ダメになった手袋をストーブで乾かすともとにもどるうれしさ、すべてが私の中にありました。
そのころは、「空から降って来たものは、無垢である」という時代でした。新雪の積もったところにお椀を持っていき、雪のシャーベットにお砂糖をかけて食べることを、あたりまえのようにしていました。宮澤賢治の「永訣の朝」を実体験とともに味わうのは、たぶん私たちが最後の世代なのではないかと思います。
「童話の里」と呼ばれたその町には、海もなく、農業と、伝説と童話以外、これといった産業もなくて、町には映画館もありません。けれど、私にとっては、子ども時代の何もかもが、あの町にあったような気がします。
町営の木造長屋に私たちは住んでいました。今でも、家の周囲の風景が目に浮かんできます。二間しかないその家には、練炭を使う掘り炬燵と、薪で焚き付けるお風呂がありました。だからかも知れません。私は「なにか物の焼ける、くすぶったような匂い」にふれたとき、えも言われぬ郷愁を覚えることがあるのです。「牧歌的」一言で言うなら、そんな町で、私は7歳まで暮らしました。