マッチに火をつける日

姉たちとともにお話をきかせてもらっていた私が、ひどく心を震わせたお話があります。「マッチ売りの少女」でした。

お話を聴きながら、涙をぽろぽろとこぼす私に、周りはおどろき、ひいていましたが、私には恥ずかしさよりも、胸をしめつける「せつなさ」を、止めることはできませんでした。

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祖母のこと

祖母の記憶をたどると、手をあわせ、祈る姿が浮かびます。

彼女は、仏壇や道端のお地蔵さまにお花をあげ、祈りをささげる人でした。なぜそんなに「あの世」に心を寄せていたのか、そのころの私には理解できませんでした。

後年知ったことなのですが、彼女はその生涯で九人もの子を産んだにもかかわらず、死産や病気や事故で子を亡くし、無事に大きくなったのがわずか三人、つまり私の父と、父の兄、そして父の妹だけでした。そしてその唯一の娘も二人の子を残し30代でなくなりました。

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会話が「ごちそう」(父の山の家)

モノクロの写真が一枚あります。田舎の家の縁側を背景に、大勢が写る家族の写真です。最前列の中央に写っているのは、4歳くらいの女の子、これが私です。夏の帽子を被り、ノースリーブのワンピースを着ています。その私をしっかり抱き寄せているのは祖母、少し離れたところに、父の兄である私の伯父が笑っています。ふたりとも、もうこの世の人ではありません。そして二人は、私の心の中では、私の理想の両親です。私はそう心に決めています。

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「嘘つき」と呼ばれて

「嘘つきは ドロボウのはじまり」。その言葉を、おぼえるころには、私にはもうすでに「嘘つき」という、不名誉な認定がされていました。

なんだか子どもの頃の私は、周りの人から、そう言って糾弾されることが、たびたびあったからです。

私は、まぎれもなく、嘘つきだったのでしょう。かまってほしくて、ありもしない空想のおとぎ話を、まわりの人に語っていたのかもしれません。

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ある寒い朝に

2019年の一月のこと。

ある朝、目がさめたら、空気がきりっと冷たく冷えていました。水道の蛇口を一番あたたかい方にねじって、お湯を出しました。手を包み込む温かいお湯の感触に、「ああ、ありがたい」という思いがわきました。

仕事始めの朝です。今日一日の仕事を思いました。私を待っている、必要としてくれる仕事場があること、仕事が終われば、ここにいごごちのよい住処があること、そんなことのすべてに「ありがたいな」という気持ちが、ある日の朝、ふっと心の中に、わいてきたのでした。

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牛乳をとりに

家から一キロ程離れたところに、牛を飼っている農家があって、我が家ではその家から生乳を買っていたようでした。二本のガラス瓶をローテーションしながら、毎朝生乳を引き取りに行くことを我が家では「牛乳とり」と呼んでいました。朝早く、空の瓶を抱えて一人歩きます。雨の日は傘をさして、雪の日は積もった雪を手で落として遊びながら、私は腹に瓶を抱えて歩きました。 “牛乳をとりに” の続きを読む

私一人の展示館(原風景4)

 

少し大きくなると私は、家の近くの空き地で一日をすごすようになりました。そこには大小の石が永遠に転がっていました。私はその石をけり、転がし、その石を芸術品のように見極め、ひとつひとつ拾っては、大切に、空き地と道路を隔てる、一段高くなったコンクリートの境界に、並べていきました。

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へんな子ども

その居心地の悪さは、私におかしな空想癖をもたらしました。
もしかしたら、シンデレラの様に、みにくいアヒルの子のように、私だけがよその子なのかもしれない、私は、最後に幸せになるために今の苦役にたえるのだ。私は家のお手伝いを進んでする「よい子」になろうとし、なるべく母に気に入られるよう努力しました。普通の4歳児や5歳児では、考えられないほどの活躍ぶりだったと思います。

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男の子を待っていたのに

1965年、二人の姉に続いて、私は三女として生まれました。

両親は、私のために、男の子の名前を用意して、楽しみに待っていたそうです。三番目の私が生まれたとき、女の子の名前を全然考えていなかったため、困って慌てて考えた、ということを、私は物心ついてから、何度となく聞かされました。

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長い一日(原風景3)

ふたりの姉たちや近所の子どもたちは、朝になると大勢で集まり、幼稚園や小学校に向けて、にぎやかに出発します。一番年下の私は、かれらが出ていったあと みょうに静かになった家にとりのこされ、時間をすごしていました。1960年代、各家庭には、テレビも、電話もない、そんな時代でした。

そのころの私の記憶に残るのは、母の後ろ姿です。母は私に背を向けて、子どものための洋服を作ることに熱中していました。あるときは、編み機で作るニットカーディガンであったり、ミシンで作るワンピースであったりしました。そのころは今のように既製服がありませんでした。また「手作りのものを子どもに着せる心」や「その技術や熱心さ」のある母親ほど「良い母」として認められる、そんな時代でもありました。 “長い一日(原風景3)” の続きを読む

 雪の記憶(原風景2)

九州の内陸部のその町に、私が生まれたのは、その頃の父の勤務地が、その町にあったからでした。

両親にとっては、長い人生のうちの、一時期住んだだけの町かも知れませんが、私にとっては、人生の始まりの地なのでした。

春はレンゲ畑、秋には刈干しの稲が広がる田んぼとそれらに水をはこぶ小川が、私たちの遊び場でした。私は、二人の姉と近所の子ども達と一緒に、いつも大勢で、群れて遊んでいました。

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