勝ちもない 負けもない

「子どもは親の持ち物」という、日本独特の考え方、強いこだわりのようなものが、この殺人事件にも見えると思います。そうじゃない、あなたのものじゃない、家の中という密室で、あなたが抱え込み、自分の手で始末をつけようなんて、それはしてはいけない、そう私は思います。

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やがて親になる人のために

都会の電車に乗る度に違和感を持ちます。老若男女の中で、赤ちゃんを抱いた人がひどく少ないことにです。この街の子どもたちは、どこにいるのかと不思議に思うほどです。ごくたまに赤ちゃんや小さな子どもを連れた人を電車のなかで見かけると、彼らはひどく恐縮して、身を小さくして、そのひとときをやり過ごそうとしているように見えます。こころなしか、子どもたちも緊張して、顔をこわばらせたり、逆に不安そうにぐずったりしています。この国は、いつからこんなに子どもを育てにくいところになったのだろうと思います。「小さい子どもがそこにいることを許し合う」ことは、発展する社会として当たり前のことだと思うのですが。

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ユキナさんとの出会い

初めてユキナさんに会ったのは、2017年の夏のことでした。私は、東京にあるビルの会議室で、ある学習会に参加していました。その日の会議室のフロアには、知り合いがいなかったので、私はそんなときにいつも座る一番前の、一番はしっこの席で、ひとりで会の始まりを待っていました。

開始ぎりぎりにユキナさんは入ってきました。長い髪と長いスカートを翻し、満席の会場をみまわして、たったひとつ残っていた、私の隣の空席を見つけて彼女は座りました。知らない女性が自分の隣に座った。私にはただそれだけのことでした。

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こころの霧が晴れるとき

世の中のほとんどの男性が敵であるような気になりかけていた私の思いが偏見だと気づいた理由は、「男性のジェンダー」を研究する多賀太さんの存在でした。彼は「男性のジェンダーが男性の問題を招き、女性への暴力や抑圧につながる」と考え、「男性の非暴力宣言」という本を出し、日本で初めて男性が主体となって女性に対する暴力を問題にする運動「ホワイトリボン・キャンペーン」を共同代表として立ち上げた人だったのでした。この社会で、そんな一歩を踏み出す男性がいることに、私は驚きました。そして自分が今まで見えていなかったもう一つの真実に気づかされたのです。

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ジェンダー発見

1996年の夏、喘息に苦しんだ妊娠期間を乗り越えて、私は無事に2人目の子どもを出産することができました。

分娩室で「女の子ですよ」と言われ、「ありがとう」と喜ぶ私に、助産師さんはこう言いました。「じゃ、上のお子さんは男の子なのね」この言葉に、特に意地悪な気持ちはなかったのでしょうけれど、私はこころのどこかに鈍い痛みを覚えました。なにげないひとことで、私の産みだした大切な命が、息を始めた一秒後に、また、一本の線を引かれ、仕分けられてしまったのでした。

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呼吸ができれば

夜、布団の中に入る瞬間、しあわせを感じます。それは「呼吸ができて、今夜も普通に眠るんだ。息ができるって、ありがたい」という思いです。あたりまえに酸素が体内に入ってきて安らかに眠りにつくことができる、なんて幸せなことだろう。ありがたい、ありがたい、とひとりで世界に感謝しながら、幸せな眠りにおちていくのです。

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藤原基央さんについて

BUMP OF CHICKEN(バンプオブチキン=バンプ)のことを最初に教えてくれたのは、当時まだ中学生だった息子でした。そのころ流行っていた「天体観測」や、いくつかのアルバムを聴かせてくれたときから、なにか気になって、私の心に残り続けてきたバンドでした。

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大人の中の子どものこころ

朝から空が青くて、完璧な秋晴れの、その日は私の誕生日でした。一日のうちに、何度か、友だちや子どもからの優しいメールに「今日は誕生日だ」と思い、誰にも言わずに過ごすうちに忘れ、夕方になって思い出し、そしてまた、忘れました。そういう風に一日を過ごしました。

夫が、夜になって、「あ!今日は 誕生日だ!」ということに気づき、慌てて、「おめでとう!」と繰り返し、「朝言ってくれたらケーキでも買ってきたのに!なんで言わんの?」と、黙って誕生日をすごした私に呆れていました。

たしかに。

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「こころの休憩所」。

2013年の春、私は7年間の年限のため、障がいを持つ子どもたちと、同僚の仲間のもとを離れ、新しい職場に転勤しました。さびしいと感じていました。ずっと体調がすぐれず、ひどい腰痛を抱えていました。新しい職場に慣れず、すぐには新しい仲間もできませんでした。周りの人を信じることも、ありのままの自分を出すこともなく日々をすごしていました。いま思えば、あのころは、実家と断絶した自分を恥じ、みじめさと罪悪感を持っていて、本当の自分を隠すことに精一杯で、世界に対して、こころを開いていなかったのかもしれません。常に緊張して神経をとがらせ、夜も眠れないような日々が続きました。ひどい腰痛も体調不良も、ストレスからくる不調だったのだと今は思います。

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「親の愛」にも「偽物のそれ」があるということ

2012年、そのころの私は、「障がいをもつこどもたち」を対象に仕事をしていました。「障がい児・者」に冷たい、今のこの社会に対して、ずっと感じていた違和感の正体を見つけたくて、2006年から7年間、私はその仕事をしました。

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楽園はここにある

その土曜日の町では、年に一度の音楽祭のために、背中に楽器を担いだ老若男女が朝から行きかっていました。ほうぼうからアマチュアの音楽好きが集まって、2日間に渡って町のいたるところで、・・公園の野外ステージや、路上や、ライブハウスなど16か所で、30分ずつ、自分たちの公演をすることができるのです。しかもその日は、ワールドカップの試合もあり、イングランドとオーストラリアのサポーターたちが、黄色や白や緑に彩られたラガーシャツに身を包み、町の至る所に特設されたビール売り場に列をなしていました。音楽とラグビー、ふたつのイベントが重なって、不思議なにぎわいを作っています。

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スノードームとアリスのキノコ

今日の画像は、義母の作品です。彼女の目に映るこの世界は、きらきらと美しくて、そこから絵になるひとこまを切りとろうと、義母はいつも目を輝かせています。そんな彼女の生き方を、私は素敵だと思います。

先日、実の母のことを、1938年 とら年生まれだと、書いてみて、改めて気づいたことがあります。義母も、亡くなった伯母も、同じ1938年に生まれたのだ、という事実にです。つまり、3人の女性が3人とも、偶然1938年の、とら年生まれ、ということになります。そういえば、大好きだった「山の家の父方の伯父」も、1926年、昭和元年のとら年生まれでした。すべて偶然のお話です。とらはとらでも、生き方も、性格もまったく違う人たちでした。

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親切(おやぎり)の春

2012年の春、46歳の私が願ったたったひとつの願いは「もう誰にも支配されたくない」ということでした。いい年をして、なにを子どものようなことを言っているのだ?と思われるかもしれませんが、永年「愚かな末娘」の役割を与えられた私は、その年になるまで両親から、「ああしろ こうしろ」と言われることに逆らわずに生きてきたのです。

その一方で、実家から離れて両親の手を借りずに子育てをした私は、逆に自分の子どもに対し「あなたの人生はあなたのもの、大切な決定は自分自身で選びとってほしい」と、一生懸命伝えてきたのです。 “親切(おやぎり)の春” の続きを読む

いとこ そして伯母の最期について

1992年は、私にとって変化の年でした。3月に引っ越しし、4月に転勤して新しい職場に移り、5月に結婚をし、10月に妊婦となりました。大変ではありましたが、前に前に進んだ年でした。ただ、その一方で、どうしても忘れられないこともありました。それは、同じ1992年の2月に起こった、母方の本家に住む、年若い いとこの突然死でした。 “いとこ そして伯母の最期について” の続きを読む