一日一日と秋が深まり、急な寒さの訪れた朝、目が覚めて、布団を這い出したものの、寒くてもう一度布団に戻りたくなる、そんな季節を迎えました。週末の度に、少しずつ冬支度をすすめています。
炬燵にも暖かい布団を着せました。いまどきの炬燵布団は、不思議な素材でできていて、ふわふわもちもちとしたあたたかい手触りに驚きます。仔猫か何かを触っているような、何とも言えない感触に、こころが癒されるのを感じます。 “冬支度” の続きを読む
一日一日と秋が深まり、急な寒さの訪れた朝、目が覚めて、布団を這い出したものの、寒くてもう一度布団に戻りたくなる、そんな季節を迎えました。週末の度に、少しずつ冬支度をすすめています。
炬燵にも暖かい布団を着せました。いまどきの炬燵布団は、不思議な素材でできていて、ふわふわもちもちとしたあたたかい手触りに驚きます。仔猫か何かを触っているような、何とも言えない感触に、こころが癒されるのを感じます。 “冬支度” の続きを読む
ある朝、突然に包まれる甘い金木犀の香りに、驚いて見上げると、すでに満開になった花が、秋の空を背負って 咲きほこっています。忙しさにかまけているうちに、いつのまにか季節は秋になっていたのです。
秋空が心地よい週末 門司の街を久しぶりに歩きました。
この街は、九州の鉄道の終点の駅として、そこから世界に船出する海の玄関口として、長く繁栄の歴史を誇りました。近代文学やノンフィクションの舞台として数多く登場する、いわば物語の『聖地』でもあるのです。街のいたるところに残された古い倉庫群や煉瓦造りの豪華な洋館が、在りし日の この街の豊かさを物語っています。
久しぶりに地元のワイナリーに行きました。深い山の中に忽然とあらわれるその「葡萄酒工房」は、森全体の樹々を、ヨーロッパのワインの産地から連れてきたという噂のとおり、足を踏み入れた瞬間に、国籍不明の森がひろがり、樹々の生みだす新鮮な空気に、発酵したぶどうの香りが混じりながら、独特の風を吹かせています。
「ある日、学校の廊下をひとりで歩いていた時、ふと気づきました。今、窓から入る涼しい風が気持ちいい なんて思いながら この夏の制服を着て廊下を歩くことは、もうないのです。高校生という日々が、私の人生の中で2度と来ない、貴重な時間なんだと気づきました。今、この時を大切にしよう、そう思うのです。」高校3年生の彼女は、進路への試験を控えて、重く神経質になりがちな季節なのに、こんな生き生きとした文章を書いてくれました。素敵です。
高校生の彼女から、大人の私の方が教えられた気がします。「いま、ここ」にある幸せを味わいながら生きる ということについて。
この家に住み始めた20年前の秋、居間の畳の部屋の真ん中に、それはやってきました。ずしりと存在感をはなち、冬は炬燵にもなってくれる、大きな座卓です。
「テレビを見たり、食事をしたり、子どもが遊んだり勉強したり、語り合ったりうたたねのできるような炬燵が欲しい。子どもの体が成長しても、みんなで使えるような、大きな炬燵を買おう」と探し始めたのでした。
以前、「大切な出会い」というタイトルで、短い作文を書いてもらいました。その中に忘れられない作品があります。
それは、幼かった日の、おじいさんとの思い出を書いたものでした。彼のおじいさんは幼い彼を、本当に可愛がり、毎日のように彼を連れ出しては、遊ばせてくれました。
ゲームセンターに連れて行ってくれた日、おじいさんは必ず孫に、「ママに言っちゃだめだよ」と、言ったそうです。お母さんは、自分の子をおじいさんがゲームセンターに連れていくことを、教育上よくないことと考えていたようです。
夏の終わりの金曜日の夕方でした。近づいてくる台風にそなえて、ほとんどの人が早めに帰宅し、人の姿もまばらになりました。週明けの臨時のお休みも決まりました。本当は、以前から約束してあった彼女との練習も、早く切り上げて安全に帰宅させなければ、と思いながら、私は彼女を迎えました。
人はなぜ、人を侮蔑し、攻撃するのでしょう。思うに、そうやって周りの人の注目を、少数の「悪役」に向けさせることで、多数派の自分たちの立場が盤石になり、より安全になるからだと思います。
つまり、「誰かをみんなで攻撃するのが上手な人」ほど、実は「自分への攻撃を恐れている人」なのだと思います。だから、真の敵は、自身の「不安」なのです。
そこには、お腹をすかせた人々と、大きなテーブルに盛られたごちそうがあります。人々はみな、1メートルほどもある長い長い箸をもたされ、それを使わないことには、食べることはできません。
人々は、乱暴に人を押しのけてテーブルの前に陣取り、われ先にとごちそうを口に運ぼうとします。後ろから、押しのけられた人から罵声が跳びますが、そんなことに構ってはいられません。自分が生き延びるためには、競争に勝たなければやがて飢えてしまうでしょう。
家族と沖縄に行き、沖縄の友人たちとともに食事をしたのは、ちょうど2年前の今ごろです。沖縄の素晴らしさは、景色や食べ物もさることながら、何といっても「人」なので、どうしても、素敵な人たちと語らいたいと思ったのです。沖縄では、お盆をはじめとする先祖供養の行事を大切にするのですが、私たちが訪ねていった日は「内地(本土)」にとってのお盆時期で、沖縄では旧暦にしたがうから、時期がずれてるし大丈夫よ と明るく迎えてくれたのでした。
「今年のお盆は、『帰省するかどうか』を慎重に考えて・・」「帰省するな とは言わない」「本当は自粛してほしい」「オンライン帰省をすすめます」「帰省する人を差別しないでほしい」・・・・。政治家や有識者の発言が次々とニュースとなり、それがまた新たな論議を呼んでいるようです。この国の人々にとって「お盆の帰省」というものはよほど重要な課題なのでしょう。人々は「正解」を求めています。「みんなは どうする? 私はどうしたらいい?」と。
「こころの休憩所」のドアに、かぼそいノックの音がして、開けるとそこに彼女が立っていました。
はりつめた神経の糸が今にも切れそうなほどに見えました。こきざみに震える手と、うつむいたままのまなざし、血の気のない唇を見ながら、私は懐かしい友人を迎えるように招き入れます。8年の間に、ここを訪れ、やがて出て行った多くの若者たちが、最初の一歩をこうして踏み入れてくれた記憶を、デジャヴのように思い返しながら。
とうとう高校3年生の夏ですね。6・3・3の12年間を「学校」という場所で過ごしてきた方々へ、伝えたいことがあるのです。
部屋の中で17年間もステイホームした女の子が、18歳の誕生日の前の日に、生まれて初めて「外に出る」物語、「塔の上のラプンツェル」は、ディズニー社が莫大な費用をかけて、世界中の18歳の若者に、18歳のこころを知っている大人に、そしていつか18歳を迎える子ども達に贈った作品だと思います。